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レビ記第五講話の冒頭近くからの抜粋

30 しかし神を否定する諸々の不敬虔な異端に属する人たちは[1]、可視的なユダヤ教と可知的なユダヤ教、すなわち外見上のユダヤ教と隠れたユダヤ教[2]との違いを理解できなかったため、それらの書と律法全体を与えてくださった神とユダヤ教からすぐに離れました。そして律法と預言者たちを与えてくださった神、天と地をお造りになった神とは別の神を捏造いたしました。しかし真実はそのようなものではありません。律法を与えてくださった方は、福音も与えてくださいました。諸々の見えるものをお造りになった方は、諸々の見えないものも備えてくださいました[3]。そして諸々の見えるものと諸々の見えないものは、同族性を持っています[4]。神についての諸々の見えない事柄が宇宙の創造以来、諸々の造られた物を通して観られるほどの同族性を、それらは持っているのです。律法と諸々の預言者に関する諸々の見える事柄も、律法と諸々の預言者に関する見えはしないが理解される諸々の事柄と同族性を持っています。したがって聖書それ自体も、言ってみれば、見える身体と、身体の内にあって理解され捉えられる魂、および「天にある諸々の事柄の雛形と影[5]」に即した霊とから構成されているわけですから[6]、私たちはともかく、聖書の中に身体と魂と霊とを――私たちに先立つ人たちには身体を、私たちには魂を、そして来るべき世において永遠の命を受け継ぎ[7]、律法に関する天上の諸々の真実に達する人たちには霊を――お造りになった方の助けを呼び求めながら、差し当たっては文字ではなく魂を追求しましょう。そしてもしも可能なら、私たちは、(いま)朗読された諸々の生け贄に関する教えを求めて、霊にまで登ることができるでしょう。



[1] 本節は、オリゲネスがカイサレイア時代に著した『レビ記講話』V,1のからの抜粋である。同講話の全貌は、ルフィヌスのラテン語訳(GCS 29,280-507)で知られるのみである。なお本断片とルフィヌス訳を比較してみると、ルフィヌス訳は概して原文に忠実であるといえる。

[2] Cf.Rm.2,28-29.

[3] Cf.Col.1,16.

[4] 見えるものも見えないものも、ともに神によって造られたという点で同族性(sugge,neia)を持っているのである。それゆえ旧約も新約も、あるいは文字通りの意味(見えるもの)も霊的な意味(見えないもの)も、ひいてはユダヤ教もキリスト教も、同程度に尊重されねばならない。

[5] He.8,5.

[6] 聖書における身体・魂・霊は、それぞれ、文字通りの意味・道徳的意味・形而上学的な思弁的意味に対応する。しかしオリゲネスは、後二者をひとからげに霊的意味というのが普通である。

[7] Cf.Mt.19,29 et al.