さらに申命記の賛歌にも、先の民の諸々の罪によって可能となった愚かな諸国民の選びが、他ならぬイエスによって実現されたことが予言的に示されている。すなわち「彼らは、神ならざるものをもって私に妬みを起こさせ、彼らの諸々の偶像によって私を怒らせた。私も、国民ならざるものをもって彼らに妬みを起こさせ、愚かな国民を持って彼らを怒らせる[1]」とある。したがって神ならざるものをもって神に妬みを起こさせ、彼らの諸々の偶像によって神を怒らせたヘブライ人たちが、どのようにして国民ならざるもの、すなわちキリスト・イエスの到来とその弟子たちをとおして神がお選びになった愚かな民によって怒りと妬みに駆られたかは、きわめて明瞭に理解され得るのである。我々は、我々自身の選びのことを考えている。すなわち、「肉によれば知恵ある者は多くなく、力ある者も、高貴な者も、多くはありません。しかし神は、知恵ある者たちを恥じ入らせるために、この世の愚かなものを選び出しました。神は、卑しいもの、軽んじられているもの、無きに等しいものを選び出しました。それは、先んじていたものたちを空しくするためであり」、使徒によって肉と呼ばれている肉によるイスラエルが、「神のみ前で誇らないようにするためです[2]」。



[1] Dt.32,21.

[2] 1Co.1,26-29.