詩編におけるキリストに関する諸々の予言に関して何を言うべきだろうか。「愛されたる者」と題された或る賛歌には次のように書かれている。その「舌は、速やかに書く人の筆であり、美しさにおいて人の子らにまさっている」。なぜなら「恵みが彼の唇に注がれている[1]」からだと。彼の唇に恵みが注がれていたことの証拠は、彼の教えの期間がわずかであったにもかかわらず――実際、彼は、一年と数ヶ月ほど教えた[2]――、居住地が彼の教えと彼を通した敬神とに満たされたことである。たしかに「彼の日々に」、月の消滅と呼ばれる完成の日まで続く「義と平和の充満とが」昇った。そして彼は、「海から海まで、諸々の川から居住地の諸々の果てまで[3]」君臨し続けるのである。またダビデの家にしるしが与えられた。すなわち乙女が「胎内に身ごもって、男の子を産んだ。その名はインマヌエル――すなわち神は我らとともに――と呼ばれる[4]」とある。同じ預言者が言っているように「神は我らとともにおられる。諸国の民よ、あなた方は知るがよい。あなた方は打ち負かされる。力ある者たちよ、あなた方は打ち負かされる[5]」という予言は成就したのである。実際、諸国の民出身の我々は、彼のみ言葉の恵みに捕らえられて打ち負かされ、征服された。そればかりかミカ書には、彼の誕生の場所も予言されている。「ユダの地、ベトレヘムよ、あなたは、ユダの指導者たちの内でもっとも小さい者では決してない。なぜなら私の民であるイスラエルを牧する支配者が、あなたから出るかからだ[6]」と。またダニエルによると、支配者であるキリスト(が来られる)までに、七十週[7]も過ぎた。ヨブによると、巨大な怪獣を手なずける方、ご自分の真正の弟子たちに、諸々の蛇とさそり、敵の一切の力を、それらから一切の害を受けずに踏みつける権能を与える方は来られた[8]。また人は、イエスによって福音を告げるために遣わされた使徒たちがあらゆるところを訪れたのを知るべきである。そうすればその人は、(彼らの)敢行は人間業ではなく、(彼らの)使命が神的なものであることに気づくだろう。さらにどのようにして人々が、諸々の新しい教えや諸々の新奇な言葉[9]を聞いて、それらの男たち[10]の許に向かったか――人々は彼らに陰謀を企てようとしていたにもかかわらず、彼らを護っていた或る神的な力に征服された――を我々が吟味するなら、我々は、彼らが数々の驚くべきことをしたのを信じないわけにはいかないだろう。神は、諸々のしるしと驚異、様々の力ある業によって彼らの諸々の言葉を証しされたのである。



[1] Ps.44,1s.

[2] Cf. Clemens Alex.,Strom.I,21,145.エイレナイオスによると(Adv.Haer.I.3,3)によると、ヴァレンティノス派は、キリストの教授期間(公生活)は一年ほどであったようである。しかしオリゲネスは、後に彼の教授期間は、三年であったと言っている(C.Cels.II,12)。彼が「一年と数か月」と言ったのは、彼が思い違いをしていたか、聖書の別の写本に依拠したからだろうか。あるいは『諸原理について』が執筆されたアレクサンドリアでは、クレメンスも同様に計数していることからして、「一年と数ヶ月」が公式的な見解だったかもしれない。

[3] Ps.71,7s.

[4] Is.7,14.13;Mt.1,23.

[5] Is.8,8s.

[6] Mi.5,2;Mt.2,6.

[7] Dn.9,24.

[8] Jb.3,8;Lc.10,19.

[9] xe,noi lo,goi:ヘレニズムの教養を受けた人たちにとって、キリストの教えは、非ギリシア的で、すなわち野蛮で不可解な教えである。そのような彼らが使徒たちの宣教を受け入れたのは、驚異的な神業であるというのが本文の趣旨である。

[10] 使徒たちのことである。