さて我々は、イエスの神性に関していわば断片的に示し、彼に関する諸々の予言の言葉を使いながら、彼に関する諸々の預言書、彼の到来を告げた諸書、あらゆる力と権能を伴った(彼の)教えを語り、それによって諸国民の中から選び出された者たち(の心)を捕らえた諸書が神的な霊感を受けたものであること[1]を証明した。そして諸々の予言の言葉の神性とモーセの律法の霊性は[2]、イエスの到来によって輝きわたったと言われねばならない。実際、キリストの到来以前には、旧約の諸書が神的な霊感を受けたものであることに関する明瞭な例を挙げることはまったく不可能であった。しかしイエスの到来は、律法と諸々の予言書が神的なものではないと憶測し得る人たちを導き、それらが天の恵みによって書き記されたものであると明瞭に思わせるに至ったのである。諸々の予言の言葉を慎重に注意深く読む人は、読むことそれ自体から神的な高揚の痕跡[3]を受けるであろう。そしてそれらの予言の言葉によって、我々が神の言葉と信じているものが人間の手になるものではないことを確信するであろう。そしてモーセの律法の内にあった光は、かつては覆いに隠されていたが、イエスの到来と同時にその多いを取り除かれて輝き出し、諸々の善――文字はその影を宿している――は少しずつ認識されることになったのである。



[1] qeopneu,stoi ei=nai)

[2] 「神性」(to. e;nqeon)、「霊性」(to. pneumatiko.n)はともに、神的な霊感を受けたものであることを示す。

[3] i;cnoj evnqousiasmou/:神的な霊感を受けた書を読むことによって読者の心に生じる神的な高鳴りである。