しかしここで、来るべき諸々の事柄の一つひとつに関するきわめて古い諸予言を集めて、(それらを)疑っている人が、神的な霊感を受けたそれらの予言に打たれて、一切の動揺と躊躇を捨て、神の諸々のみ言葉に全霊を傾けるようにすることは、骨の折れることであろう。また(聖書の)文字の一つひとつについて、諸々の意味の超人間的な性格[1]が学識のない人たちに知られないとしても、決して驚くべきことではない。実際、全世界に密着している摂理の諸々の業の内、あるものは、まさに節理の業としてきわめて明瞭に現れるが、あるものは、言語を絶した術と力で万物を司る神について不信の余地を与えかねないほどに隠されている。たしかに地上の諸々の事柄においては、摂理者に関する秀でた説明[2]は、太陽と月と諸々の星におけるほど明瞭なわけではない。また人間的な諸々の出来事に関する事柄においても、(摂理者に関する秀でた説明は)諸々の生物の魂や体におけるほど明白ではない。なぜならそれらの生物に注意する人たちには、それらの生物の諸々の衝動と表象および体の構成に関して、その目的と理由が極めて明瞭に見出されるからである。しかし一たび摂理を正しく受け入れた人たちの間では、(摂理に関して)知られない諸々の事柄があるからといって、摂理が破綻したことにはならないのと同様に、聖書全体に行き渡る聖書の神性も、我々の弱さが一つひとつの言葉の下で、粗末で卑しむべき(聖書の)言葉の内に隠されている諸々の教えの輝きに至ることができなくても、破綻したことにはならない[3]。実際「私たちは、土の器の内に宝を持っています。それは神の力の卓越さが輝き出すためであり[4]」、その輝きが我々人間に由来すると思われないようにするためである。もしも人々の間で使い古された諸々の論証法が、聖書に貯えられていて、人々を説き伏せる力を持つとすれば、我々の信仰は、「神の力の内にではなく、人間たちの知恵の内にある[5]」と当然、憶測されただろう。しかし両目を上げて見る人には、多くの人たちの間での「言葉と宣教が、知恵の説得力ある諸々の言葉によってではなく、例と力との証明によって[6]」力を持っていたことは明白である。それゆえ、天の力あるいは天を超えた力が我々を駆り立てて、我々を造った方だけを崇拝するように促しているのであるから、我々は、「キリストの教えの始め」すなわち初歩を離れて「完全性を目ざし[7]」、「完全な者たちに語られる知恵」が我々にも語られるようにしよう[8]。なぜなら知恵を獲得した者は、完全な人たちの内で知恵を語ることを約束するからである。この知恵は、この代の知恵とも、この代の支配者たちの滅び行く知恵とも違う。それは、「代々にわたって秘められていた神秘、しかし今や諸々の予言書と主なる私たちの救い主イエス・キリストの出現とにより明らかにされた神秘の啓示によって[9]」、私たちの内に明瞭に刻印されるだろう。キリスト・イエスに「栄光がすべての代々にありますように。アーメン[10]」。



[1] to. u`pe.r a;nqrwpon tw/n nohma,twn)

[2] o` peri. pronoou/ntoj tecniko.j lo,goj)

[3] オリゲネスにとっては、どんなに矛盾に満ちた、あるいは不合理と思われる聖書の字義通りの意味の内部にも、一貫した霊的な意味が隠されている。しかしこのような考えはオリゲネスに独自のものではなく、すでにクレメンスにも(Paed.I,5,15; I,6,36; I,7,60; Strom.V, 6,36)、ユダヤ教のラビたち(特に二世紀初めのAkiba)にも見出される。オリゲネスの聖書解釈とラビ伝承との関係については、目下、私見をまとめている(訳者)

[4] 2Co.4,7.

[5] Cf.1Co.2,5.

[6] Cf.1Co.2,4.

[7] He.6,1;1Co.2,6.

[8] 要するに、我々は聖書の文字通りの意味の把握から霊的な意味の把握に進まねばならないのである。それは言い換えれば、我々の理解の眼差しを、十字架に付けられたキリストからロゴス・キリストに向け変えることである。Cf.Com.Jn.II,3,21-23; Hom.Ex.XII,4; Hom.Lv.IV,6; Com.Mt.XVI,8; Clemens.Strom.VI,15,132.

[9] Rm.16,25s et 2Tm.1,10.

[10] Cf.1P.4,11.