聖書が神的霊感を受けたものであることについて簡略に述べた。次に、聖書の読書と理解との方法に進む必要がある。なぜなら大多数の間違いは、聖書のをどのように読むべきかというその方法が多くの人に見出されないことに起因するからである。割礼を受けた人たちの内で心が頑なで知識の乏しい人たちは、我々の救い主を信じていない。それは彼らが、救い主に関する諸々の予言の言葉に忠実に従っていると思い込んでいるからである[1]。彼らは、救い主が「諸々の囚われ人に解放を告げ[2]」、彼らが真実に神の都であると思っている都市を彼が建設し[3]、「エフライムから諸々の戦車を絶ち、エルサレムから馬を絶つ[4]」ことも、「凝乳と蜂蜜を食べる[5]」ことも、「しかも諸々の邪悪を知ったり選ぶ前に、善を選ぶこと[6]」も感覚的に見たことがない(と言っている)。また彼らは、「四足獣である狼が子羊とともに草を食み、豹が子山羊とともに休み、小牛と牡牛と獅子が小さい子供に導かれて草を食み、牛と熊がともに牧され、それらの子供らを互いに育て、獅子は牛と同じように干し草を食べる[7]」ということが予言されていると考えている。しかし彼らは、それらのどれ一つとして、我々が信じているキリストの到来に際して実現されたのを感覚的に見たこと語がないとして、我々の主なるイエスに近づかず、かえって彼が法に反してみずからをキリストと呼んだとして、彼を十字架にかけたのである。諸々の異端に属する人たちは、次の箇所を読む。「私の憤りによって火が点じられた[8]」。「私は妬みの神である。父祖たちの罪を子らに、三代、四代までも及ぼす[9]」。「私は、サウルに油を注いで王にしたことを悔やむ[10]」。「私は、平和を作り、諸々の災いをもたらす神である[11]」。さらに「主がお作りにならなかった災いは、町にはない[12]」。「諸々の災いが主からエルサレムの門に降った[13]」。「主からの悪霊がサウルに取り憑いた[14]」。その他これらに類する無数の箇所を彼らは読む。彼らは、聖書が神に由来することを信じるのにやぶさかではない。彼らは、聖書が、ユダヤ人たちが礼拝している創造主に由来すると信じている。しかし彼らは、その創造主が不完全で、善なる方ではないため、救い主が訪れて、より完全な神を告げたと考えている[15]。彼らは、この神は創造主ではないと主張しているが、この神については様々な見解に分かれている。そして彼らは、造られざる唯一の神[16]である創造主から一たび離れるや、数々の作り話に没頭して、様々な仮説を捏造したのである。彼らはそれらの仮説に従って、諸々の見えるものや、彼らの魂が空想するその他の諸々の見えざるもの[17]ができあがったと考えている。しかしながら教会に属することを誇りにしている者たちの内でより純朴な人たちにしても、創造主よりも偉大な方は誰もいないことを受け入れている。彼らは、その点で健全に判断している。しかし彼らは、冷酷極まりない極悪な人間について考えもしないような数々の事柄を創造主に関して抱いているのである。



[1] 多くのユダヤ人たちは、聖書の言葉に忠実に従っているといっても、文字通りの意味に従っているだけだというのが、オリゲネスの主張である。

[2] Is.61,1; Lc.4,19.

[3] Cf.Ez.48,15s.

[4] Za.9,10

[5] Is.7,15

[6] Is.7,15

[7] Is.11,6s.

[8] Jr.15,14.

[9] Ex.20,5.

[10] 1S.15,10.

[11] Is.45,7.

[12] Am.3,6.

[13] Mi.1,12.

[14] 1S.18,10.

[15] オリゲネスによれば、諸々の異端者、特にマルキオンの誤りは、聖書の素朴な義人神観を文字通りに解釈して、旧約の義なる神と新約の善なる神とを区別したことにある。Cf.DePrinc.II,4,4.

[16] avge,nnhtoj mo,noj qeo,j : オリゲネスは神の非被造性を示すために、avge,nnhtoj(eg.C.Cels.VIII,15)avge,nhtoj(eg.C.Cels.II,51)の両語を等価に用いている。両語が明瞭に区別されるのは、四世紀にアリウス派の危機が顕在化してからである。

[17] 「諸々の見えるもの」は、(旧約の創造主によって造られた)可見的な世界であり、「諸々の見えざるもの」は、より完全な神から発出する様々なプレーローマあるいはアイオ〜ンの世界である。