上で述べた神についての数々の謬見と不敬そしてお粗末な諸説の原因は、聖書が霊的な事柄に即して理解されず、剥き出しの文字に即して受け取られたことに他ならないと思われる。それゆえ聖書が人の手になる文書でなく、聖霊の鼓吹によって、万物の父の意思に即して、イエス・キリストを通して書き記され、我々の許に届いたと確信する人々のために、妥当な諸方法が示されるべきである。彼らは天の教会[1]に所属する使徒たちの継承によって伝えられたイエス・キリストの基準[2]に依拠している。

 さて、幾つかの経綸は神秘的なものであるが、神的な書を通して明らかにされていることを、すべての人々が、そしてみ言葉を受け入れた人たちの内でもっとも純朴な人たちさえも、信じている。しかし幾つかの経綸については、思慮深く謙虚な人たちは、知らないと告白している。たとえばもしも人が、ロトと(二人の)娘との交わり[3]やアブラハムの二人の婦人[4]、ヤコブと結婚した二人の姉妹[5]、ヤコブから子供を生んだ二人の召し使い[6]について問題を提起するなら、人々は、それらは神秘に他ならないが、我々によっては理解されていないと言うだろう。そればかりか、幕屋の建設が朗読されとき、書き記された諸々の事柄が象徴であると確信している人々は、幕屋に関して言われた諸々の事柄の一つひとつを何に適応させることができるか探求する。彼らは、幕屋が何らかの象徴であると確信している点では間違ってはいない。しかし彼らは、幕屋が象徴している特定の事柄に、聖書に相応しい仕方で説明を加えようとすると、時として誤りを犯すのである。そして彼らは、婚姻や子作りや戦争、その他の、多くの人々によって受け入れられるであろう諸々の歴史的な事柄に関して物語っていると見なされている一切の叙述が象徴であると主張する。しかしどのような事柄の象徴であるかということに関して、あるときは十分に鍛錬されているとはいえない技能のゆえに、あるときは性急さのゆえに、またあるときは、鍛錬されて慎重さを兼ね備えた人であっても、問題の事柄の発見が人々にとって極端に難しいために、それらの事柄の一つひとつに関する理拠は、十分に明らかにされないのである。



[1] ouvra,nioj evkklhsi,a : 地上の教会と対比される天の教会ではなく、天に由来する地上の教会をさす。なぜなら「使徒たちの継承」は地上で行われるからである。

[2] o` kanw/n th/j VIhsou/ Cristou/ : 文字通りの解釈ばかりでなく霊的解釈をも許容する信仰生活に最低限必要な教えをさす。

[3] Cf.Gn.19,30.

[4] アブラハムの正妻サライと側女ハガルのことである。Cf.Gn.16,1s.

[5] ラバンの娘レアとラケルのことである。Cf.Gn.29,21s.

[6] ラケルの召し使いビルハとレアの召し使いジルパのことである。Cf.Gn.30,1s.