まさにこれらの言葉の内に暗示されているものがいったい何であるか、我々は力を尽くして検討することにしよう。一切のよき牧草と一切の静かな水は、諸々の神聖なる文字からなる諸々の託宣の全体であると、私は思っている。ある人たちは、諸々の書かれた事柄の一部を有益なものとして是認し、また他の一部を、救いをもたらさないものとして斥けている。そのような人たちは、みずから選び出した諸々の牧草の中からよき牧草を食み、より善き水と判断した水の内でも静かな水を飲んだ後、牧草の残りを踏みつけ、残りの水を自分たちの足で掻き乱す人たちであると言えよう。彼らは、新約を是認し、旧約を斥ける人たちであり、諸々の古い文字の一部は、より神的な上からの力に由来すると言い、他の一部は、より劣った力に由来すると言う。ところが牧者は、彼らの足によって踏みつけられたものを蔑まず、非難すべき諸々の群れの足によって掻き乱された水を無に帰さない者たちを、ご自分の群れと宣言するのである。そして非難すべき諸々の群れとは、おそらく山羊たちと子山羊たちの群れであろう。なぜならそれらの群れは、(人の子の)右側に値する羊たちの諸々の群れであることを望まなかったからである[1]



[1] Cf.Mt.25,33.