したがって我々は、牧者の諸々の群れであることを祈願しているのであるから、諸書に記載された、言葉に関する限りそれ自体で馬鹿げた諸々の事柄、しかも表現の馬鹿ばかしさゆえに牧草のすべてを利用できず、また利用しようともしない人たちによって踏みつけられた諸々の事柄を、食むことを決して避けないようにすべきである。そればかりか、たとえ何らかの水が、彼らの足によって掻き乱されてしまったとしても――実際、彼らは、聖書の清浄な教えに、数々の邪な問題提起を混ぜ合わせてしまった――、彼らがその教えにもたらした混乱のゆえに、彼らの足によって掻き乱された水を飲むのを回避するといったことがないようにすべきである。さらに、水を掻き乱し、牧草を踏みつけた者たちに対して、次のことが、いっそう優れた者たちに関することであるかのように語られていることに慎重に留意すべきである。すなわち「そして私の諸々の群れは、あなた方の足によって踏みつけられたものを食み、あなた方の足によって掻き乱された水を飲んだ」とある。我々は、預言の牧草を一度たりとも踏みつけるべきではないし、律法の水を掻き乱すべきでもない。しかしある者たちは、福音の牧草と使徒の水に関しても罪を犯している[1]。そのため彼らは、福音に属する数々の事柄の内、或るものを踏みつけ、或るものをよき牧草として食む。また使途に属す数々の事柄のすべてを退けたり、その或るものを是認し、その或るものを退けたりする。しかし我々は、福音の全体を食むべきであって、それらの何一つとして踏みつけるべきではない。また使徒のすべての事柄を飲むべきである。それらの事柄は、ただ我々次第で静かな水となるものだが、我々はそれらを保持すべきであって、それらの事柄の内煮で言われている諸々の事柄のどれ一つとして、理解する術を知らない者たちを掻き乱す不信仰によって掻き乱さないようにすべきである。



[1] グノーシス主義者のことをさす。