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 聖書の読書に際して、聖書における数々の謎と諸々の比喩の曖昧さを理解できない人が落胆しないようにするために。『ヨシュア記第二十講話』からの抜粋[1]

 そのような諸々の朗読[2]から得られる最高の利益は、次の人に生じます。すなわちそれは、ヨシュアによってイスラエルの子らに割り当てられた真の嗣業地を理解することができる人、しかも聖なる大地、真の大地、本当に真実の大地に昇って、語られた諸々の事柄の名称から、様々な相続者たちと、諸々の場所に関して言われた数々の事柄とを対応させることができる人に生じます。しかし、そのようにして利益を得る人を見出すことは難しいからといって、聴き手の皆さんが諸々の朗読に際して落胆しないように、私は励ましたいと思います。

 では、そのような諸々の朗読を聞く人が落胆しないようにするために語られるべき励ましとは、どのようなものかお話しなければなりません。諸々の呪文が何らかの本性的な力を持っていて、呪文を受ける人が呪文を理解しなくても、その呪文から――自分自身の体や魂の損害であれ治療であれ――何らかの効果を受けるように、聖書における諸々の名称を口にすることは、すべての呪文よりも力があると、あなたはご理解ください。実際、私たちの内には諸々の何らかの力があって、それらの諸力の内でも優れた諸力は、いわば数々の呪文と同類なので、それらの同類の呪文によって養われます。そして私たちがそれらの呪文を理解していなくても、それらの諸力は語られた諸々の事柄を理解して私たちの内にあってより強力なものとなり、私たちの生活に協働するようになるのです。私たちの内に不可視的なものが存在し、しかもそれらは多くあることを、詩篇は明らかにしてくれるでしょう。それはこう言っています。「我が魂は主をたたえよ。私の内なるすべてものは、その聖なるみ名をたたえよ[3]」。ですから私たちの内には、何かしら多くの力が存在して、私たちの諸々の魂と諸々の体とを分担しています。そしてそれらの諸力は、もしも聖なるものであれば、私たちの精神が実を結ばなくても、聖書が朗読されるときに利益を得て、より強力なものとなるでしょう。それは、舌で語る人について次のように書かれている通りです。「私の霊は祈りを捧げます。しかし私の精神は実を結びません[4]」と。したがって、時に私たちの内なる精神が実を結ばないものであっても、魂や精神と協働し、私たちのすべてと協働する諸力は、諸々の神聖なる文字とそれらの諸々の名称とから得られる理性的な栄養によって養われます。そしてそれらの諸力は、養われることによって、より力あるものとなり、私たちに協働します。また、優れた諸力がいわば呪文を受けて利益を得、それらの文字と名称によって、いっそう力あるものとなるように、私たちの内なる諸力の内でも敵対する諸力は、神の諸々の呪文によっていわば打倒され打ち負かされます。そして打ち負かされて、鎮められるのです。



[1] 本講話のギリシア語原文は、幾つかの断片を除いて失われているが、ルフィヌスによるラテン語訳がその全貌を幾らか縮約して今に伝えている。

[2] Cf.Jos.15,13-62.

[3] Ps.102,1.

[4] 1Co.14,14.