あなた方の内に、マムシやそれに類する爬虫類の何かが数々の呪文によって鎮められるのを見たことがある人がいれば、その人はこの例を聖書に当てはめてください。聴衆は、聖書が朗読されても、それが理解できない場合、時として嫌気が差し、落胆します。しかし、そのような聴衆は、自分の内にいる諸々のマムシや諸々のクサリヘビが、薬剤師たちの数々の医薬によって、いっそう力の抜けたものになると信じるべきです。その薬剤師たちの諸々の医薬は、たとえば、賢者モーセからのものであり、賢者ヨシュアからのもであり、あるいは聖なる賢者である預言者たちからのもです。ですから私たちは、聖書を聞いて理解できなくても、落胆しないようにしましょう。むしろ、まさに私たちが信じる信仰に従って[1]、神の霊感を受けた聖書全体は有益なものであるということが[2]、私たちにとっての事実であるとしましょう。実に、この聖書に関しては、次の二つのいずれかを、あなたは受け入れなければなりません。すなわち、不信仰な人がおそらく考えるように、聖書は有益なものでないから神の霊感を受けたものではないと認めるか、あるいは聖書は神の霊感を受けたものであるから有益であることを、信仰者として受け入れるか、ということです。しかしながら、その利益は、しばしば私たちの気づかないうちに、もたらされるということを知っておくべきです。それはたとえば、しばしば、私たちが眼に効く何らかの食物を食べるように指示されても、(その食物によって)眼が利益を受けたと気づくのは、明らかに食べている最中ではないのと同じことです。眼に利益をもたらす食物の付与は、むしろ経験上、ニ、三日過ぎてから、眼を益するものであったと私たちに確信させるのです。体の何らか部分を益する他の諸々の食物に関しても、そのことを見て取ることができます。ですから聖書に関しても同様に、たとえ精神が、単純な読書からは、文書に由来する利益の実りを摘むことができなくても、あなたの魂は利益を得ると確信してください。実際、あなた内なるものは呪文を受けます。優れたものは(それによって)養われ、劣ったものは(それによって)滅ぼされます。



[1] Cf.Mt.9,29.

[2] Cf.2Tm.3,16.