しかし、なぜ私は、時宜をわきまえずに脱線して、エジプトから受け取られた諸々の品物がイスラエルの子らにとってどれだけのことに有益であるのかを示さなければならないのでしょうか。それらの品物は、エジプト人たちは然るべきことに使わず、ヘブライ人たちは神の知恵のおかげで[1]敬神のために使いました。しかしながら聖書は、ある人たちにとっては、イスラエルの子らの地からエジプトに降ったことが害悪となったことを知っています。なぜなら聖書は次のことを理解させてくれるからです。エジプト人たちの許に滞在すること、すなわち、神の律法と、神のためのイスラエルの礼拝とによって育てられた後で、この世の諸学に滞在することは、ある人たちにとっては害悪となるということです。実際、エドム人ハダドは、イスラエルの地にいる限りは、エジプト人たちのパンを食べなかったので、諸々の偶像を作ることはありませんでした。しかし彼が神の知恵から逃れるかのようにしてソロモンの知恵から逃れ、エジプトに降ったとき、ファラオの親戚となりました。そしてファラオの妻の妹と結婚し、男の子をもうけました。その子はファラオの子供たちの間で育てられました[2]。それゆえ彼がイスラエルの地に戻ってきたとしても、神の民を分裂させ、金の仔牛に関して「イスラエルの人たちよ、これらが、あなたをエジプトから連れ戻したあなたの神々です[3]」と彼らに言わせるために戻ってきました。私にしても、経験から学んで、あなたに次のように申し上げたいです。すなわち、エジプトから数々の有益な品物を受け取ってエジプトを脱出し、神の礼拝のための諸々の物品を作る人は希で、価値むしろエドム人ハダドの兄弟が多いのです。彼らは、何らかのギリシア的な知識によって数々の異端的な思想を生み出している人々です。彼らはいわば、で数々の金の仔牛を作っているようなものです[4]。そしてベテルは、神の家と解釈されます。み言葉は、(聖書の)これらの事柄を通して、次のことを暗示しているように私には思えます。すなわち聖書の中には神のみ言葉が宿っており、聖書は象徴的にベテルと呼ばれているのに、彼らはその聖書の中に数々の私的な空想物を置いていると[5]。聖書は、また別の空想物がダンに置かれたと言っています[6]。ベテル一帯は、ヌンの子ヨシュアの書に記載された諸々の事柄から明らかなように、異邦人の地域に近い辺境です[7]。ですから、既に説明しましたように、ハダドの兄弟たちが作り上げた諸々の空想物の幾つかは、異邦人の地域の近くにあります[8]



[1] Ex.31,3.

[2] Cf. 1R.11,14-20.

[3] 1R.12,28.この言葉は、ハダドではなく、同じくソロモン王の許を去ってエジプトに逃れたヤロブアムの言葉である。オリゲネスは、ハダドの記事(1R.11,14-25)とヤロブアムの記事(1R.11,26-12,33)を混同している。P.ノータンによれば、その原因は、オリゲネスの記憶違いによるものではなく、七十人訳ギリシア語聖書そのものに見られる両者の混同にあるとされる(op.cit.,p.159, n.21)

[4] Cf.1R.12,29.

[5] 「空想物」と訳したギリシア語(avnapla,smata)は、「作り事」「でっち上げ」「絵空事」などとも訳せる。オリゲネスはこの語をしばしば、異端者の諸思想に用いている。Cf.eg.Hom.Jr.XVI,9,1-9; De Pricnc.,IV,2,1 etc.オリゲネスは、ここで、異端者が、聖書には本来的に見られない思想を読み込み、それを聖書の思想と思い間違っていると主張している。

[6] Cf.1R.12,29.

[7] Cf.Jos.19,40-48.

[8] オリゲネスによれば、結局、キリスト教の異端は、聖書の理解に、異邦の学識を軽率に利用したことにある。