しかしながら、以上のことを受け容れにくい人は、意味されている諸々の事柄の正確さや文法上の規定に照らして明るみに出された諸々の事柄の正確さなしに、倫理的な問題や自然学的な問題あるいは神学的な問題を然るべき仕方で証明することができるかどうか考察してみるべきである。そもそも、諸言語における文字通りの意味で使用されている諸々の語[1]を学び、意味されている諸々の事柄を注意深く考察することが、どうして馬鹿げているだろうか。時として我々は、文法上の諸々の事柄の無知のために、大きな思い違いをしてしまう。それは我々が、諸々の多義性や両義性、転用法、文字通りの意味での語の使用、句読法[2]を明確にしていないからである。たとえば、世という名詞の多義性[3]を知らないために、創造主に関して不敬きわまりない諸々の事柄を考える結果になってしまった人々がいる。彼らは、「この世は邪悪の内にある[4]」という言葉がどのような諸々の事柄をさすのか明らかにしていなかった。この言葉は、地上にある諸々の事柄と人間的な諸々の事柄の代わりをなすものとして、そのようにヨハネによって語られているのである。実際、彼らは、世(という名詞)が、その言葉どおり、天と地とそれらの内にある諸々の物の総体を意味すると考えているため、神について、大胆不敵で不敬きわまりない諸々の事柄を表明している。というのも彼らは、太陽と月と諸々の星が、このように規則正しく運行しているのに、どうして邪悪の内にあるのかを明らかにできるわけがないからである。次にもしも我々が、「この方は、世の罪を取り除く神の子羊である[5]」という言葉を引用して、それらの言葉どおり、罪に満ちた世が、すなわち地上の数々の場所で罪が満ちた世のことが語られているということを彼らに示すなら、彼らが良識を持ち合わせていれば、彼らは言われたことに同意するだろう。しかし論争を好む彼らは、愚かにも背を向けているのである。なぜなら彼らは、(言葉の)多義性に無知であるため、一度は間違っていると判断された諸々の事柄に留まっているからである。また、「神は、キリストにおいて、世をご自分と和解してくださった方なのです[6]」という言葉が語られるなら、彼らは、すべての世に関して、すなわち、世の全体における諸々の事柄に関して把握していることを、何よりも自分たちの諸々の仮説に従って証明することは、もはやできないだろう。その言葉を多義的なものとして検討する必要が、まさに彼らにはあるのである。

 さらに、両義性に起因する数々の間違った解釈や、諸々の読点の区別やその他の無数の事柄の区別に起因する数々の間違った解釈の例を、(我々が)熱心になりさえすれば、少なからず挙げることができる。我々が脇道に逸れて以上のことを述べたのは、神的な諸書を理解する際に真理に関して躓きたくないと望む我々にとっても、もっとも必要なことは、言葉使いに相応しい言語上の諸事項を知ることであるということを、我々が示すためである。そして今の場合も[7]、「夜の支配のために[8]」と言われていることと、「昼と夜を支配するために[9]」と言われていることの違いを見出すために、我々はそれらの事項を必要としたのである。



[1] ta. kuriolektoume,na:「文字通りの意味で使用されている諸々の語」

[2] 省略

[3] h` o`mw,numoj th/j ko,smoj proshgori,aj fwnh,:直訳すれば、「世という名詞と同じ形の語」というになる。つまり、これは、「世という言葉の別の意味」をさす。

[4] 1Jn.5,19.

[5] Jn.1,29.

[6] 2Co.5,19.

[7] 創世記1,16-18aの解釈の場合をさす。

[8] Gn.1,16.

[9] Gn.1,18a.