10 もしもこの例が理解されたなら、理性的な生き物たちの理性的な糧の質に、その例を適応すべきである。そしてプラトンやギリシア人たちの内の賢者たちが、その発言において、清潔であると思われている人々だけを配慮する医者によく似ていて、大勢の人々を蔑んでいないかどうか、あなたは考察してください。これに対して、ユダヤ人たちの間の預言者たちやイエスの弟子たちは、諸表現の多彩な組み合わせや、聖書が言語を暗示しながら名づけているような「人々の知恵」や「肉による知恵」に従って嬉々として語ることに縁遠い。その点で彼らは、等質でもっとも健康的な食べ物を諸表現の組み合わせによって調理し提供することに配慮する人たちになぞらえられよう。彼らによる諸表現の組み合わせは、大勢の人々に届くもので、人々の諸々の言語を異質なものとして疎んじず、また異質であるがゆえに、彼らの然々の諸々の会話を聞き慣れないものとして拒むこともない。そして、言うなれば理性的な食物の課題は、食べた人を忍耐強く柔和にさせることであるから、大勢の柔和で忍耐強い人々をもたらす、あるいは彼らを(柔和と忍耐という)それらの徳へと駆り立てる言葉は、数えることができるほどの極僅かの人々を――たとえできるとしても――忍耐強く柔和にさせる言葉に比べて、どれほど見事に調理されていることか。

 そしてもしもプラトンがエジプト語を話す人たちやシリア語を話す人たちに、数々の健全な教えによって益したいと望むなら、彼はギリシア人であるにもかかわらず、聴き手となる人々の諸言語を学ぼうと図ったであろう。そして彼は、ギリシア人のまま留まって、エジプト人たちやシリア人たちに有益なことを何も語れないでいるよりは、エジプト人たちやシリア人たちの改善のために、ギリシア人たちが名づけているように、夷狄の人のように振舞おうと図っただろう。それと同じように、教育を受けたと見なされているギリシア人たちのことばかりでなく、その他の人たちのことも配慮する神的な本性は、大勢の聴き手の人たちの素人の状態にまでへりくだったのである。それは、神的な本性が、彼らに馴染みの諸表現を使って、大勢の素人たちを聞くことへと招くためであった。そして彼らは、ひとたび手引きが行われれば、その後は、諸書の内に隠された諸々の意味の内でもより深い意味をも把握したい[1]という熱望を抱き得るのである。そして、それらの書をわずかでも読む人たちにとっては、多くの個所が、一見して現れる意味よりも深い意味を持ち得る[2]ということは明らかである。この意味は、み言葉の吟味にみずからを捧げる人たちに顕れる。しかもそれは、み言葉の研究に充てられた時間とみ言葉の習得への熱意とに比例して顕れるのである[3]



[1] 省略

[2] 省略

[3] なお、本節は、『ケルソスへの反論』第760からの抜粋である。