12 これに続いてケルソスは、次のように言っている。神的な霊が体の中にあったのであれば、その体は、大きさや美しさ、体力や声、威厳や説得力において、他の何ものにもあらゆる意味で優っていなければならなかった。実際、他の諸々のものよりも何らかの点で神的なものが他のものにまったく優らないということは得ないからである。ところがこれは、他のものにまったく優らず、そればかりか人々が言うには、小さくて醜く卑しかった、と[1]。これらの個所においても(ケルソスは)、イエスを非難しようとする場合には、諸書――それらは彼に避難の口実を提供しているように見えるのだが――を信用しているかのように、諸書から言葉を引用している。これに対して、同じ諸書で、非難のために取り上げられた諸々の事柄とは反対の諸々の事柄が言われていると人が考えそうな場合には、彼はそれらを知らない振りをしているように思われるのである。

 さて、イエスの体が醜かったことに関する諸々の事柄は、確かに書かれている[2]。しかしながら、イエスの体は、(ケルソスが)指摘しているように卑しかったわけではなく、またそれが小さかったことも明瞭に示されているわけでもない。イザヤ書には次のような表現が書き記されている。イザヤは、そこで、イエスが多くの人たちのところに滞在するが、若々しい姿においてでも、何らかの卓越した美しさにおいてでもないことを預言している。すなわち、「主よ、誰が私たちの聞いたことを信じるでしょうか。そして、主のみ腕は誰に啓示されたでしょうか。私たちは、子どものようになって、乾いた地の根のようになって、彼のみ前で告げました。彼には麗しい姿も栄光もありませんでした。私たちは彼を見ました。しかし彼には麗しい姿も美しさもありませんでした。彼の姿は不名誉で、人々の子らにも及ばなかった[3]」とある。果たしてケルソスは、それらの言葉を、イエスを非難するのに役立つと考えて受け入れたが、詩篇第44番の中で語られていることや、それがどのように語られているかに、もはや注意を払わなかったのだろうか。「力強き者よ、あなたは、あなたの剣をあなたの腿に結び付けよ、あなたの若々しさとあなたの美しさをもって。そして身を伸ばし、勇ましく進み、治めなさい[4]」とある[5]



[1] 後出のイエスの体をさす。

[2] Cf.Is.53,1-3.

[3] Is.53,1-3.

[4] Ps.44,4-5.

[5] 本節は、『ケルソスへの反論』第675全体からの抜粋である。