13 そこで、彼は預言を読んだとするか、あるいは読んだとしても、(その預言は)イエス・キリストに関して預言されたものではないとして、誤って解釈する人たちに惑わされたのだとよう[1](次のように記されている)福音については、彼は何と言うだろうか。すなわち、その中では(こう言われている)、「(イエスは)高い山に登り」、弟子たちの「前で変容し」、栄光の内に見られた。そしてそのとき、「モーセとエリアも見られて、彼がエルサレムで成し遂げようとしている彼の出立について語っていた[2]」とある。あるいは、もしも預言者が、「私たちは彼を見た。彼には麗しい姿もなく美しさもなかった[3]」云々と言うなら、ケルソスも、その預言がイエスに関係することを受け入れるだろう。もっとも彼は、語られている事柄の把握に関しては盲目になっていて、イエスの生まれる何年も前に、まさに彼の姿に関する預言がなされていること自体が、醜く見えるイエスが神の子であることの大きな証拠となっていることに気づかないのである。しかし他の預言者がイエスに関して麗しさと美しさがあると預言した場合、ケルソスはその預言がイエス・キリストに関係することをもはや望まないのだろうか。かりに、「しかし彼には麗しい姿も美しさもありませんでした。彼の姿は不名誉で、人々の子らにも及ばなかった[4]」ということが諸々の福音から明瞭に引き出すことができるなら、ケルソスはそれらのことを預言に則して言ったのではなく、福音に則して言ったと、人は言うことができるかもしれない。しかしながら、諸々の福音も使徒たちも、「彼には麗しい姿も美しさもありませんでした」という言葉を表明していないのであるから、それは、明らかに、預言から引き出されたのは必然であり、キリストに関して真実になったのである。このことは、もはやイエスに関する数々の中傷が横行するのを許さない[5]

 



[1] Cf.C.Celse, I, 55.

[2] Mt.17,1-3.

[3] Is.53,2.

[4] Is.53,2.

[5] 本節は、『ケルソスへの反論』第676全体からの抜粋である。