14 (ケルソス)はさらに、次のように言っている。神的な霊が体の中にあったからには、それは、大きさの点でも、声の点でも、体力の点でも、威厳の点でも、説得力の点でも、あらゆる意味で他の諸々のものよりも優っていたに違いない、と。しかし、彼の身体の卓越性は、見る人たちにとって可能な限りで、したがって有益な限りで、それぞれの人に見られるべきものとして現れたということが、どうして(ケルソスには)分からなかったのか[1]。その上、本性的に移ろいやすく可変的な質料が創造主の望むすべてのものに変わり得るものであり、名工が望むあらゆる性質を受け容れ得るものであるのは驚くべきことではない。たとえば(体を構成する質料が)、「彼は麗しい姿も美しさも持っていませんでした[2]」と言われている場合の性質を持ったり、イエスに同行した三人の使徒たちが、あのように偉大な美しさを観て、「うつ伏せに[3]」倒れたほどの輝かしく厳かで恐るべき性質を持ったりすることは驚くべきことではない。

 しかし(ケルソスなら)、これらは、イエスに関する他の数々の不思議と同様に、作り事であり、諸々の神話とまったく異ならないと言うだろう[4]。 

 



[1] 省略

[2] Is.53,2.

[3] Mt.17,6.

[4] 本節は、『ケルソスへの反論』第677前半からの抜粋である。以下は、後半の全訳である。

このことに対しては、我々は、これに先立つ幾つかの個所で詳細に弁明した。しかし(聖書のこの)言葉は何かしら更に神秘的な事柄を含んでおり、イエスの様々な姿が、神的なみ言葉の本性に帰着することを告げている。なぜなら神的なみ言葉は、多くの人たちに対してと、我々が語った「高い山」(Mt17,1)に到るまでみ言葉に従うことができる人たちに対してとでは、同じ仕方で現れないからである。事実、まだ下方にいて、昇る準備のできていない人たちに対しては、み言葉は、「麗しい姿も美しさも持たない」(Is.53,2)。なぜならみ言葉の「姿」は、このような人たちにとっては、「不名誉で」あり、この(イザヤ書の)個所で象徴的に「人々の子ら」と呼ばれる、人々によって作られる諸々の言葉「にも及ばなかった」(Is.53,2)からである。確かに我々は、哲学をする人たちの諸々の言葉――それらが「人々の子ら」である――は、多くの人たちに宣べ伝えられる神のみ言葉よりも、はるかに若々しく美しいというかも知れない。なぜなら神のみ言葉は、「宣教の愚かさ」(1Co.1,21)としても現れるからである。そして、「宣教の愚かさ」が現れるがゆえに、そのことだけしか観ない人々は、「私たちは彼を見ました。しかし彼は麗しい姿も美しさも持ってありませんでした」(Is.53,2)と言うのである。しかしながら、彼に従うことによって、「高い山に」昇って行く彼に付いていくための力を得た人々にとっては、彼は、より神的な姿を持っている。彼らがペトロのような人物であって、み言葉による彼の内における教会の建設を受け入れ、黄泉のいかなる門も彼に打ち勝ち得ないほどの強靭な心構えを得ているなら(cf.Mt.16,18)、彼らは、そのより神的な姿を見る。なぜペトロが、黄泉のいかなる門も彼に打ち勝ち得ないかというと、彼は、「乙女シオンの門において」神の「すべての賛歌を物語る」べく、み言葉によって「死の門」から引き上げられたからである(cf.Ps.9,14-15)。そして、大声を発する諸々のみ言葉からの誕生を得る人々がいるなら、そのような人々は、可知的な「雷」(Mc.3,17)に欠けることは決してない(cf.Com.Mt.XII,32)

 しかし、真理を愛求しつつキリスト教に関する事柄を吟味することのない、ケルソスや神的なみ言葉の敵たちは、イエスの様々な姿の意図をどこから知ることができるのだろうか。さらに私としては、(様々な)年齢の意図ばかりでなく、受難の前に彼によって為された諸々の事柄の意図や、死者たちからの復活の後の諸々の事柄の意図を(これに)付言しておきたい。