15 これに対して、次のように言わなければならない。ほとんどすべての物語を、それがたとえ真実なものであっても、実際に起こったものとして証明し、その物語に関する確かな表象[1]を形成することは、著しく困難な事柄に属することであり、時として不可能である。たとえばある人が、『イーリアス』の(トロイの)戦争は、特に次のような理由で、実際には起こらなかったと主張しているとしよう。すなわちその理由とは、(その物語には)、アキレウスなる人物が海の女神と人間ペレウスと息子として生まれたとか、サルペドンはゼウスの息子として生まれた、あるいは、アスクラフォスとヤルメノスはアレウスの息子として生まれたとか、アイネイアはアフロディテの息子として生まれたということに関するあり得ない話が、織り混ぜられているという理由である[2]。我々はどうしてそのようなことを(実際に起こったとして)証明できるだろうか。なぜなら我々は、イーリアスにおけるギリシア人たちとトロイ人たちとの戦争が本当に行なわれたことに関するすべての人々に支配的な意見に、どうのようにしてだか私には分からないが、作り話が織り込まれていることに、何よりも当惑しているからである。また、ある人が、オイディプスとイオカステ、そしてそれら両者から生まれたエテオクレスとポリュネイケス(の物語)に関して――半身半女のスフィンクスの如きものがその話に織り混ぜられているという理由で――信用していないとしよう[3]。我々は、どのようにしてこのようなことを(実際に起こったと)証明できようか。同様に、エピゴノスの一族たちに関する諸々の事柄についても――たとえこの話に、上のようなことがまったく織り混ぜられていなくても――、またヘラクレスの一族たちの帰還に関する諸々の事柄についても、あるいは他の無数の人々に関する事柄についても、同じことが言える。しかしながら、それらの物語を慎重に読んで、それらの物語においても欺かれないように身を持そうとする人は、これこれしかじかの事柄を虚構した人たちの意図を探求しつつ、一方で何に同意できるか、他方で何を象徴的に解釈すべきかを識別するだろう。そして、何を、ある人たちへのひいきによって書き記されたものとして拒否するかを識別するだろう。我々があらかじめ以上のことを言ったのは、諸々の福音書の中でイエスに関して述べられているすべての物語のためである。しかしこうすることで我々は、明敏な(読者の)人たちを、単純で非理性的な信仰に招いているのではない。むしろ、読者の人たちが、どのような考えで個々の事柄が書かれたを見出すには、彼らには、慎重さと十分な吟味、そしてこう言ってよければ、(それらの物語を)書いた人たちの意図への潜入が必要であることを、我々は指摘したいのである[4]



[1] katalhptikh. fantasi,a:ストア派の用語。精神に刻印された疑い得ない印象で、真理の基準となる。

[2] 省略

[3] 省略

[4] 本節は、『ケルソスへの反論』第142全体からの抜粋である。

 

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