16 ケルソスは、み言葉を非難しようとするときには、諸々の書かれた事柄の内、自分の望む個所を信じているように見え、他方、同じ巻き物の中に語られている神性の出現を受け容れたくないときには、諸々の福音を信じていないように見えると、我々は言うことにしよう。彼は、諸々のより劣った事柄に関する記載から、書いた人たちの誠実さを見て取ったなら、諸々のより神的な事柄に関しても信じるべきであった[1]



[1] 本節は、『ケルソスへの反論』第163の前半の一部からの抜粋である。この部分を含むこの節全体を訳すと、以下のようになる。

 さらにケルソスは、邪悪極まりない収税人や船乗りを例に挙げながら、イエスの使徒たちを悪名高い人間だと言っている。そこで我々は、このことについても言うことにしよう。すなわちケルソスは、み言葉を非難しようとするときには、諸々の書かれた事柄の内、自分の望む個所を信じているように見え、他方、同じ巻き物の中に語られている神性の出現を受け容れたくないときには、諸々の福音を信じていないように見えると、我々は言うことにしよう。彼は、諸々のより劣った事柄に関する記載から、書いた人たちの誠実さを見て取ったなら、諸々のより神的な事柄に関しても信じるべきであった。確かに『バルナバの公同書簡』の中には――おそらくケルソスなら、この書簡から(口実を)得て、使徒たちが悪名高く邪悪極まりないと言っただろう――次のように書かれている。すなわち、イエスは、「ご自分の使徒たちを選び出した」。「しかし彼らは、一切の無法を超えて無方法者であった」と。また、『ルカによる福音』では、イエスに向かってペトロが次ぎのように言っている。「主よ、私から離れてください。なぜなら私は、罪深い男ですから( Lc.5,8)」。さらにパウロも――彼も後に、イエスの使徒となった――、『テモテへの手紙』の中で次のように言っている。「み言葉は信頼できます。なぜならイエス・キリストは、罪人たちを救うために世に来たからである。そして私は、彼らの中で第一の罪人である(1Tm.1,15)」と。なぜ(ケルソスが)パウロに関して何か言うのを忘れたのか、あるいはなぜ何か言おうと考えなかったのか、私にはわからない。パウロは、イエスの後に、キリスト結ばれた諸教会を堅固に立てた人物である。定めしケルソスは、パウロに関する議論が、以下のことに関する釈明を自分に求めていることに気付いていたのだろう。すなわち、神の教会を迫害し、信者たちと激しく争って、イエスの弟子たちを死に渡そうとまでしたパウロが、どうして後ほど態度を変え、「エルサレムからイリュリクムに至るまでキリストの福音を広めようとした」のか、またどうして彼が、「福音を述べ伝えたいという熱意に駆られて」、キリストにおける神の福音を、「他の土台の上に」築くのではなく、それがまだまったく宣べ伝えられていない所に築こうとしたのか( Cf.Rm.15,19-21)、ということである。一体イエスが、諸々の霊魂を癒すのにどれほど大きな力を持っているかを人類に示そうとして、悪名高く邪悪極まりない者たちを選び出し――彼らを通してキリストの福音へと導かれた人たちのために――彼らをもっとも清浄な品行の模範にしたことは、どうして馬鹿げているだろうか。