17 実際もしも(福音書を書いた人たちが)誠実ではなく、ケルソスが考えているように、彼らが数々の作り事を記載するとすれば、彼らは、ペトロが拒んだとか[1]、イエスの弟子たちが躓く[2]とは記載しなかっただろう。そもそも一体誰が、それらのことが起こったとして、それらのことは実際にあったという理由でその話を非難するだろうか。とはいえ、諸々の福音を読む人たちに、キリスト教の告白のために死を蔑むように教えようとしている人々にとっては、それらのことは当然のことながら沈黙の内に伏されるべきであった。しかし彼らは、み言葉は人々(の心を)強力に掴むことができると見てとっていたので、まさにそれらの類の諸々の事柄も記載したのである。もちろん私はどのようにしてだか分からないが、それらの事柄は、読者の人たちを害することもなければ、(イエスを)拒む口実を与えることもないだろう[3]



[1] Cf. Mt.26,34.

[2] Cf. Mt.26,31.

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第215の後半からの抜粋である。この前半を訳すと、以下のようになる。

 また、ケルソスは次ぎのように言っている。「イエスの弟子たちは、明白な事跡に依拠することがまったくできなかったため、イエスはすべてのことを予知していたと言うことにした」。ケルソスはこのように言いつつ、(福音書を)書いた人たちの誠実さを顧慮せず、また顧慮しようともしなかった。確かに(福音書を)書いた人たちは、イエスが弟子たちにまさしく次ぎのように預言したことを認めている。すなわち、「あなた方は皆、今夜中に、躓くだろう(Mt.26,31)」。そして彼らが躓くと、イエスが言ったことは本当になったことを、(福音書を書いた人たちは)認めている。イエスがペトロに対しても、「鶏が鳴く前に、あなたは三度私を拒むだろう(Mt.26,34)」と予言し、そしてペトロは三度拒んだことを、(福音書を書いた人たちは)認めている。実際もしも・・・。