18 (聖書のこの)言葉は何かしら更に神秘的な事柄を含んでおり、イエスの様々な姿が、神的なみ言葉の本性に帰着することを告げている。なぜなら神的なみ言葉は、多くの人たちに対してと、我々が語った「高い山[1]」に到るまでみ言葉に従うことができる人たちに対してとでは、同じ仕方で現れないからである。事実、まだ下方にいて、昇る準備のできていない人たちに対しては、み言葉は、「麗しい姿も美しさも持たない[2]」。なぜならみ言葉の「姿」は、このような人たちにとっては、「不名誉で」あり、この(イザヤ書の)個所で象徴的に「人々の子ら」と呼ばれる、人々によって作られる諸々の言葉「にも及ばなかった[3]」からである。確かに我々は、哲学をする人たちの諸々の言葉――それらが「人々の子ら」である――は、多くの人たちに宣べ伝えられる神のみ言葉よりも、はるかに若々しく美しいというかも知れない。なぜなら神のみ言葉は、「宣教の愚かさ[4]」としても現れるからである。そして、「宣教の愚かさ」が現れるがゆえに、そのことだけしか観ない人々は、「私たちは彼を見ました。しかし彼は麗しい姿も美しさも持ってありませんでした[5]」と言うのである。しかしながら、彼に従うことによって、「高い山に」昇って行く彼に付いていくための力を得た人々にとっては、彼は、より神的な姿を持っている。彼らがペトロのような人物であって、み言葉による彼の内における教会の建設を受け入れ、黄泉のいかなる門も彼に打ち勝ち得ないほどの強靭な心構えを得ているなら[6]、彼らは、そのより神的な姿を見る。なぜペトロが、黄泉のいかなる門も彼に打ち勝ち得ないかというと、彼は、「乙女シオンの門において」神の「すべての賛歌を物語る」べく、み言葉によって「死の門」から引き上げられたからである[7]。そして、大声を発する諸々のみ言葉からの誕生を得る人々がいるなら、そのような人々は、可知的な「雷[8]」に欠けることは決してない[9]



[1] Mt17,1.

[2] Is.53,2.

[3] Is.53,2.

[4] 1Co.1,21.

[5] Is.53,2.

[6] Cf.Mt.16,18.

[7] Cf.Ps.9,14-15.

[8] Mc.3,17.

[9] Cf.Com.Mt.XII,32. 本節は、『ケルソスへの反論』第677の後半からの抜粋である。この前半は既に、『フィロカリア』第1514で抜粋された。