19 また彼の衣服も、下方にあるときは別のものでした。それは純白ではなく、光のようなものでもありません。もしもあなたが高い山に昇るなら、あなたは、彼の衣服をも、光として見るでしょう[1]。み言葉の衣服とは、聖書の諸表現です。諸々の神的な意味の衣類とは、それらの言葉です。ですから、彼が下方にいるときは別様に現れ、上方に昇ると変容し、彼の顔は太陽のようになるのと同じように[2]、彼の衣類も同様に変わり、彼の衣服も同様に変わります。あなたが下方にいるときには、それは、輝くこともなく純白でもありません。しかし、あなたが上方に昇れば、あなたは、衣服の美しさと光を目の当たりにし、イエスの変容した顔に驚嘆するでしょう。そこであなたは、諸々の福音においても、救い主に関して同様のことを学ぶことができるのではないかお考えください。一方で、アブラハムにまで遡り、肉によればダビデの種から産まれた彼の誕生に関する諸々の事柄が、イエス・キリストの誕生の書物です[3]。他方で、彼に関して語られるであろう一層神的で一層偉大な諸々の事柄や、彼によって語れる諸々の事柄に関して、ヨハネは、「この世も、書き記された諸々の巻物を収めきることはないと私は思う[4]」と言っています。書き記された諸々の巻物をこの世が収めきれないのは、ある人たちが考えているように、文字の多さの故であると受け取られてはなりません。むしろそれは、諸々の事跡の偉大さの故なのです。なぜなら諸々の事跡の偉大さは、書き記すことができないばかりでなく、肉の舌を通して述べることもできず、人間の諸々の言語や声の内に表示することもできないからです。それでパウロも、もろもろの一層神的な事柄をまさに学ぼうとしたとき、私たちを取り巻くこの世から脱して、「第三の天の中に連れ去られ[5]」、そこで「口にするのも畏れ多い数々の言葉[6]」を聞くことができたのです。実際、この世で語られる諸々の事柄は、まさに神のみ言葉であると見なされていますが、み言葉が肉となり[7]、神として神と共にあったみずからを空しくしたからこそ[8]、告げ知らされます。それ故、私たちは、地上にある神のみ言葉を――それが人となったみ言葉であるが故に――人間的な言葉として見ることができるのです。実にみ言葉は、私たちの内に宿るために[9]、諸々の書の中で常に肉となっています。しかし、肉となったみ言葉の胸に私たちが寄り掛かり、高い山にお登りになるみ言葉に従うことができるなら[10]、「私たちは、彼の栄光を見た[11]」と言うでしょう。み言葉の胸に寄り掛かり、み言葉に従って高い山に登っていった人たちとは異なる他の人たちも、おそらく、「私たちは彼の栄光を見た」と言うでしょう。しかし彼らは、「恵みと真理に満ちた、父の独り子としての栄光[12]」という言葉を付け加えることはまだないでしょう。なぜならこの言葉は、ヨハネや彼に似た人たちに相応しいからです。また、別のより高度な解釈によれば、(山に)登り、地上での外見を捨てて変容されたイエスの諸々の足跡に従うことができる人たちは、個々の書の至る所にイエスの変容を見るでしょう。多くの人たちに現れるイエスは、言ってみれば、(聖書の)平易な表現です。これに対して、高い山にお登りになり――諸々の高みにまで従うことのできた極めてわずかな弟子たちの前で――変容されたイエスは、神秘の内に隠された知恵の諸々の託宣を含む最も高く高尚な意味なのです[13]。この知恵は、神がご自分の義人たちの栄光のために諸々の代に先立ってあらかじめお定めになったものです[14]



[1] Cf.Mt.17,1-2.

[2] Ibid.

[3] Cf.Mt.1,1.

[4] Jn.21,25.

[5] 2Co.12,2.

[6] 2Co.12,4.

[7] Cf.Jn.1,14.

[8] Cf.Jn.1,1 et Phil.2,7.

[9] Cf.Jn.1,14.

[10] Cf.Mt.17,1.

[11] Jn.1,14.

[12] Ibid.

[13] 省略

[14] Cf.1Co.2,7. 本節は、現存する『ケルソスへの反論』の写本には見出されない。大多数のオリゲネス研究者は、本節を同書の失われた頁と見なしている。しかし、文体や言い回しからみて、本節は他の作品(たとえば『マタイによる福音講話・注解』)からの「忠実ではない」抜粋ではないかと、訳者(朱門)は思っている。