以上のことを私が述べたのは、ケルソスや他の者たちによって非難されている諸書の表現上の拙さ――それは表現の修辞上の輝きの下に精彩を欠いているように見える――に関して弁明するためである[1]。実に我々の許にいる預言者たち、すなわちイエスとその使徒たちは、諸々の真理を含むのみならず、多くの人たちを引き付けることができる発話の仕方を弁えていた。その発話の目的は、詰まるところ、引き付けられた多くの人々が、回心し手引きされて、それぞれが各自の能力に応じて、拙いと思われている諸表現の内に言いようのない仕方で語られている諸々の事柄に昇っていくことであった[2]。大胆に言えば、プラトンや(彼と)同じように主張する人たちの非常に華麗で洗練された表現は、人を益したとしても、僅かの人しか益さなかった。これに対して、拙い仕方であると同時に実践的な仕方で多くの人々を対象に教え著作した人々の表現は、多くの人々を益した。実に、有識者であると思われている人たちの手の内でしか、プラトンなる人物を見ることができない[3]。これに対してエピクテトスという人物が、益を受けることへの傾向を持った一般の人たちによって賞賛されているのを見ることができる。なぜなら人々は、彼の諸々の言葉に由来する改善作用に気づいているからである。

 もちろん我々は、プラトンを断罪するために以上のことを言っているのではない――実際、上層階級の大多数の人々[4]が、まさしく彼を有り難くもてはやしている――。むしろ我々は、次のように言う人々の意図を明示したいのである。すなわち、「そして私の言葉と私の宣教は、知恵の説得力ある諸々の言葉の内にではなく、霊と力の証明の内にある。それは私たちの信仰が人々の知恵の内にあるのではなく、神の内にあるためである[5]」とある。



[1] 省略

[2] e[wj protrape,ntej kai. evisacqe,ntej e[kastoj kata. du,namin avnabw/sin evpi. ta. evn tai/j dokou,saij ei=nai euvtele,si le,xesin avporrh,twj eivrhme,na.もう少し愚直に訳すと、「それは彼らが回心し、(諸秘義の内に)導き入れらて、各自の能力に応じて、拙いと思われている諸表現の内に神秘的に語られている諸々の事柄へと上昇していくことだったのである」となる。真理は、原則的に大衆に開かれているとはいえ、理解力に応じて段階的に把握される。したがって真理は、その把握の初期の段階にあっては、必然的に神秘的・秘義的である。

[3] Cf.Plutarcus, Mor.328E:「プラトンの法律を読んでいる人は、我々の内で僅かである」。

[4] 省略

[5] 1Co.2,4-5. 本節は、『ケルソスへの反論』第6巻2の前半の抜粋である。後半は『フィロカリア』第15章4(後出)に引用されている。