さらに神的なみ言葉は、次のことも言っている。語られた事柄は、たとえそれ自体で真実で極めて信頼に値するとしても、語り手に何らかの力が神から与えられなければ、また、語られた諸々の事柄の上に恵みが開花していなければ、人の魂に触れるには十分ではない。そしてこの恵みは、効果的に語る人たちの内に、神の助けなしには生じないと。事実、預言者は『詩篇』第67番で次のように言っている。「主は、良い知らせを大きな力をもって告げる人たちに、言葉を与えてくださる[1]」と。したがって結果的に、何らかの諸々の事柄に関して数々の同じ教えが、ギリシア人たちと我々のみ言葉に属する人たちとに存在するのが認められるとしても、それらの教えが、諸々の魂を引き付け、それらの教えに従ってそれらの魂を整えさせる上で同等の能力を持っているのではない[2]。それゆえ、たとえばギリシア哲学に対して門外漢であったイエスの弟子たちは、この居住地に住まう諸国の多くの民の間を行き巡り、聞き手の一人ひとりを(その)功績に応じて、み言葉が望むままに整えさせた。そして善きものを受け取りたいという聞き手の人たちの意志に応じて[3]、聞き手の人たちは、さらに善き者になったのである[4]



[1] Ps.67,12.

[2] 「整えさせる」と訳した原語(diati,qhmi)の直訳は、「心構えをさせる」「仕向ける」という意味である。恥ずかしながら、適切な日本語が浮かばなかった。

[3] 直訳すると、「そして善きものの受容に向けられた聞き手の人たちの自由意志の傾向に比例して」となる。

[4] 本節は、『フィロカリア』第15巻2で引用された『ケルソスへの反論』第6巻2の後半である。