「したがって知識を持つことのできる人たちに対して、古代の賢者たちが明示されるべきである。それだけでなく、アリストンの息子プラトンは、その数々の書簡のどれかで、最高善に関する諸々の事柄を説明し、その最高善は『決して言い表わし得ず』、むしろ『長期にわたる関わりによって』生じるものであり、『いわば燃え上がる火から突如として魂の内に点される光[1]』であると主張すべきである」。これらの言葉を我々としても聞き知っているが、我々としては、見事に語る人たちに対して、神がそれらのことや見事に語られる限りのすべてのことを「顕わにした[2]」ということに同意する。それゆえ神に関する数々の真実を思い巡らしつつも、神に関する真理に相応しい信心を実践しない人たちは、罪人たちの数々の懲らしめを被ることになると、我々は主張する。こういった類の事柄に関して、パウロは、文字通り次のように言っている。「真理を不正の内に独占している人たちの一切の不信心と不正の上に、神の怒りが天から啓示される。なぜなら神について知られ得る事柄は彼らの内で顕かだからである。実際、神は、彼らに顕かにした。実に、神の永遠の力であれ、神性であれ、神に関する数々の不可視の事柄は、宇宙の創造以来、諸々の被造物によって理解され観取される。それゆえ彼らには弁解の余地がない。なぜなら彼らは神を知っておきながら、神を神として褒め称えもしなければ感謝もせず、自分たちの数々の思案の内に空しく時を費やしたからである。そして彼らの愚かな心は曇らされてしまった。彼らは賢者であると主張しながら愚か者となり、不滅の神の栄光を、人間や数々の鳥や四足獣や爬虫類の滅び行く姿と同然にしてしまったのである[3]」。我々のみ言葉が証ししているように、最高善は「決して言い表わし得ないものである」と考え、「事柄それ自体にめぐる長期にわたる関わりによって、そして共に生きることによって、いわば燃え上がる火から突如として点された光が魂の内に生じ、(その光が)それ自身でそれ自体を養う[4]」と言う人たちは、実に「真理を独占している」のである[5]



[1] Cf.Plat.Ep.VII,341CD.

[2] Cf.Rm.1,19.

[3] Rm.1,18-23.

[4] Cf.Plat.Ep.VII,341CD.

[5] 本節は、『ケルソスへの反論』第6巻3全体の引用である。