しかし最高善についてそのようなことを書いた人たちは、アルテミスを女神として祈りを捧げ、門外漢の人たちによって実施される大祭を見るために、「ペイライエウス」へ下っていった[1]。そして彼らは、魂についてそれほど偉大な数々の事柄を哲学し、立派な生活をした魂の行く末を詳細に物語ったにもかかわらず、「神が彼らに顕かにした」数々の事柄の偉大さを捨てて、数々の陳腐で小さな事柄を思い巡らし、「アスクレピオスに鶏」を奉納したのである。彼らは、「世の被造物から」そして諸々の感覚的な諸事物から、神についての「数々の不可視の事柄」と諸々のイデアを想像し――それらの感覚的な諸事物から彼らは、諸々の可知的なものへ昇っていった――、神の永遠の力と神性を卑しからざる仕方で観た。しかしそれにもかかわらず、彼らは、「自分たちの数々の思案の内に空しく時を費やした」。そして言うなれば「彼らの愚かな心」は、闇と無知――神的なものに仕えることに関する無知――の内を転げ回ったのである。また彼らが、知恵と神学とについて大いに思慮したにもかかわらず、「滅び行く人間の姿と同然の物」を伏し拝み、その上、彼らが言うには、その栄誉のために、時にはまさにエジプト人たちとともに、「数々の鳥や四足獣や爬虫類」のところにまで降りさえした。たとえある人ひとたちが、結果的にそれらのものを乗り超えたように見えても、彼らは、「神の真理を偽り」に変え、「創造者を越えて被造物[2]」を畏れ礼拝している。それゆえ、ギリシア人たちの内で知恵がある者たちや博学な者たちが神的なものをめぐり数々の業によって誤りを犯したため、「神は、知恵ある者たちを恥じ入らせるために、数々の世の愚かなものや卑賤なもの、弱いものや無きに等しいものを選び出し、数々の存在するものを無効にするために存在しないものを選び出した」のである。そしてそれは真に、「一切の肉が、神のみ前で誇らないようにする[3]」ためであった。

 ところが先ず、我々の賢者たち、すなわちもっとも古い賢者であるモーセ、そして彼に次ぐ預言者たちは、最高善が「決して表しえないもの」であることを知っていたが、相応しく親しみのある人たちにご自身を現されたとして、彼らは、神が言ってみれば、アブラハムやイサクやヤコブに「見られた」と書いた[4]。しかし見られたものは何だったのか、どのような仕方で見られたのか、そして私たちの内にいる人たちの誰に見られたのか。彼らはこれらの問題を検討することを、神を見た人たちと似た者であるとみずから申し出ることができる人たちに遺したのである。しかし神は、彼らの身体の目によって見られたのではなく、彼らの清い心によって見られた。実に我々のイエスによれば、「心において清い人たちは、幸いである。なぜなら彼らは神を見るだろうから[5]」とある[6]



[1] Plat.Res.I,327A.

[2] Rm.1,20-25.

[3] 1Co.1,27-29.

[4] Cf.Gn.12,7; 26,2; 35,9.

[5] Mt.5,8.

[6] 本節は、『ケルソスへの反論』第6巻4全体の抜粋である。