そして、「いわば燃え上がる火から突如として魂の内に光[1]」が点されることをみ言葉は前もって知っていた。実際、み言葉は、預言書の中で次のように言っている。「あなた方は、あなた方自身のために認識の光を輝かしなさい[2]」。そしてみ言葉の後に来たヨハネは、次のように言っている。み言葉の内に「成ったものは命であった。そして命は、人々の光であった。そしてこの光は、「真の光で、すべての人を照らす。それは」、真で可知的な「世」にてきた。そしてその人を「世の光[3]」にした。実際、この光は、「我々の心の中で輝いた。それは、キリストのみ顔において、神の栄光の福音を輝かせるためであった[4]」。それで、もっとも古い預言者は、キュロスの統治よりも何代も前に――実際、彼は、キュロスよりも14代以上も先立っていた[5]――、次のように言ったのである。「主は、私を照らす光、私の救い主。私は誰を恐れよう[6]」。「あなたの掟は、私の足のともし火、私の道の光[7]」。「主の、あなたのみ顔の光は、私たちの上に印された[8]」。「私たちは、あなたの光の内で光を見るでしょう[9]」と。さらに、イザヤ書におけるみ言葉は、この光へと我々を促し、次のように言っている。「エルサレムよ、光を放て。光を放て。なぜなら、あなたの光が来たからだ。そして、主の栄光があなたの上に昇った[10]」と。この同じみ言葉は、諸々の偶像や神像、鬼神の崇拝から(我々を)引き離すためにイエスが到来することを預言して、「死の陰と国の内に座している彼らに光が昇った」、また、「闇の内に座している民は、大いなる光を見た[11]」と。

 したがってあなたは、プラトンによって最高善ついて見事に語られた事柄と、幸いな者たちの光について預言者たちの内で語られている諸々の事柄との違いに注目すべきである。そして、この最高善に関するプラトンにおける真理が、読者たちを益して、いわば混じりけのない敬神に向かわせることはまったくなく、その最高善についてそれらのことを哲学的に思惟した彼自身をも向かわせることがなかったこと、これに対して、神的な諸文書の粗末な表現は、純正に読書する人たちを熱狂させたことに、あなたは注目すべきである。このような読者たちの許では、この光は、あるたとえ話の中で語られている油によって養われる。その油は、五人の思慮深い乙女たちにおける諸々の松明の光を養うとされる[12]



[1] Cf.Plat.Ep.VII,341CD.

[2] Os10,12.

[3] Jn.1,3-4,9; Mt.5,14.

[4] 2Co.4,6.

[5] オリゲネスは、マタイ伝1,17の系図に従って、こう述べている。

[6] Ps.26,1.

[7] Ps.118,1-5.

[8] Ps 4,7.

[9] Ps35,10.

[10] Is.60,1.

[11] Is.9,2.

[12] Cf.Mt.25,1s. なお本節は、『ケルソスへの反論』第6巻5全体の抜粋である。