これらの次に我々は、彼すなわちケルソスの続きの言葉を見てみることにしよう。それはこうなっている。「彼らには、次のような訓戒が存在する。侮辱する者に歯向かうなと。すなわち彼は、『もしも彼が一方の頬を打つなら、あなたはさらに他方の頬を差し出しなさい[1]』と言っている。これは、はるか昔に語られた太古の訓戒であり、彼らはこれを田舎者丸出しに思い起こしたのである。実際、ソクラテスも、クリトンと対話するソクラテスに次のように言わしめている。『それでは、決して不正を働いてはいけないのですね。確かにだめだ。では、多くの人々が考えているように、不正を働いた者に対して仕返しに不正を働く、これもいけないのですね。決して不正を働いてはいけないのですから。してはいけないのは明らかだ』[2]」云々。このことに対して、そしてケルソスなる人物が公にしたすべての事柄に対して――ケルソスは、それらの事柄の真実性を直視できないため、それらの事柄はギリシア人たちの許でも言われていると言い張っているのである――、次のように言わなければならない。もしも教えが有益で、その教えの意図が健全であれば、それは、プラトンにおいてギリシア人たちに対しても言われようし、モーセや預言者たちの誰かにおいてユダヤ人たちに対しても言われよう。さらにそれは、書き記されたイエスの諸々の言葉や彼の使徒たちの許で語られたイエスの諸々の言葉の内に、キリスト者たちにも言われよう。しかしユダヤ人たちやキリスト者たちの許で語られた事柄は、それらの事柄がギリシア人たちの許でも言われているという理由で――取り分けユダヤ人たちに属する諸々の事柄の方がギリシア的な諸々の事柄よりも古いことが証明される場合には――、非難されるべきだと見なされるべきではない。また、同じ事柄を表現するにしても、ギリシア的な表現の美しさに装われて言われる場合の方が、ユダヤ人たちやキリスト者たちの間で単純な言い回しの下に粗末に語られる場合に比べて、あらゆる意味で優れていると見なされるべきではない。そもそも、預言者たちが使用して我々に(聖書の)諸々の巻を残してくれたところの、ユダヤ人たちの元来の表現は、ヘブライ人たちの言語によって、そしてその言語の諸要素の賢明な統辞によって、彼らなりの仕方で書き記されたものなのである[3]



[1] Lc.6,29; Mt.5,39.

[2] ここまでは、『ケルソスへの反論』第7巻58前半からの抜粋。この続き――訳文中の「云々」に相当する個所――は次のように訳される。

 「『では、どうだろう、クリトン。悪を働くべきか否か。ソクラテス、だめだと思います。では、どうだ。多くの人たちが主張するように、悪を被った人が仕返しに悪を働く、これは正しいか正しくないか。決して正しくありません。そうすると、人々に対して悪を行うことと、不正を行うことまったく異ならないだろう。あなたのおっしゃるとおりです。してみると、仕返しに不正を働くべきではないし、人々の誰に対しても悪を行うべきではない――人々からどのような悪を被ったとしても[2]』。これらのことをプラトンは述べて、さらに続ける。『したがって、あなたも十分よく考えてみてくれ。あなたも同じ意見を共有し、あなたにもそう思われるか否か。そして我々はこの原則に立って、不正を働くことも、仕返しに不正を働くことも、悪を被った者が歯向かい悪をもって報いることも決して正当なことではないと断定するか否か。それともあなたは袂を分ち、この原則を共有しないのか否か。ともなく、私には昔から、そして今でも、そのように思われる』。以上のことがプラトンには望ましく思われた。そしてそれは、以前から、神的な人たちによっても、そのように思われていた。しかし以上のことに関しても、彼らが改竄したその他の数々の事柄に関しても、いま語れたことで十分だとしよう。その他の数々の事柄をもっと立ち入って探求したい人には、その事柄がわかるだろう」。

[3] 本節の後半からここまでは、『ケルソスへの反論』第7巻59前半からの抜粋。この後半は、次節に抜粋される。