そしてもしも諸々の教えの同等性が、たとえ説明が条理を逸したものに見えても、ユダヤ人たちの預言者立ちの許やキリスト者たちの諸々の言葉において、より優れた仕方で語られていることを示さなければならないとすれば、その説明を、諸々の食物とそれらの調理とに関する或る例に基づいて提示すべきである。食する者たちに力を与える何らかの健康的な食べ物があるとしよう。そして、そのように調理され、数々の特定の調味料で整えられた食べ物を、茅葺の家で育てられ、そのような物を食べるにも貧乏で無学な田舎者が食べるのではなく、豊かで洗練された人たちが食べるとしよう。他方で、このように――より清潔であると見なされている人々がよいと思う仕方で――調理されなかった食べ物を、貧しい人たちや田舎者たち、そして人々多くの者たちが学んだよう食べ方で、不特定多数の人たちが食べるとしよう。そこで、もしも、一方の特定の調理では、より清潔であると見なされている人たちだけしか健康にならないが――なぜなら多くの人たちの誰一人としてそのような食べ物に近付かないからである――、他方の調理では、人々の多くの者たちが一層健康的に暮らすということが認められるとすれば、我々は、公共のために、より健康的な食物を求めて、どちらの人たちを受け入れるべきか。学識のある人たちの益になるようにそれらの食物を調理する人たちか、それとも、多くの人たちのために調理する人たちか。いずれの仕方で調理された食べ物からも、同等の健康と体調が生じると認めるとしよう。しかし、多くの人たちの健康を配慮する医者の方が、僅かな人たちだけの健康を配慮する医者よりも、より公益にかなっていると[1]、人類愛と公共性それ自体[2]が暗示しているのは明らかである[3]

 



[1] 省略

[2] 省略

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第759後半からの抜粋である。