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教会における諸々の分派のゆえにキリスト教を中傷する人たちについて。『ケルソスへの反論』第3巻からの抜粋。

 次に彼は、キリスト教における諸々の分派に関する事柄を口実にして、み言葉を中傷し、我々に対して次のようなことを言う。彼らは、増えて大勢になるにつれ、ますます分裂し、別れ、各人が独自の立場を持とうとしていると。そして、彼は言う。「彼らは、多数になればなるほど分裂し、彼ら自身を非難している。彼らが(何かを)共有しているとしても、いわばたった一つの名前だけを共有しているに過ぎない。そして、その名前を捨てることだけを、彼らは恥としている。しかし、他の諸々の事柄に関しては、彼らは互いに別様のことを立てている」と。これに対して、我々は次のように言わなければならない。真摯で、生活にとっても有益な営みからしか、様々な分派は生じなかった[1]。実際、医術は、人類にとって有益であり必要である。また、諸々の身体の治療の仕方に関して医術の中で問われる事柄は数多くある。それゆえ、ギリシア人たちの間では、周知のとおり医学の内に多くの分派が見出されるのである。私は、医術を行使すると自認する夷狄の人たちの許においても、同様であると考えている。また、諸々の存在者の真理と認識を約束する哲学も、如何に生きるべきかを提案し、我々人類に有益な諸々の事柄を教えようと努めている。そして、探求されている諸々の事柄は、きわめて多様な意見をもたらしている。それゆえ、哲学においても、非常に多くの分派が成立した。それらのあるものは一目瞭然であり、他のものはそれほどでもない。そればかりかユダヤ教も、モーセの諸々の事跡や預言者の諸々の言葉に関する多様な解釈に、諸々の異端の誕生の口実を与えた。したがって同様に、キリスト教が、人々に対して――ケルソスが考えているように奴隷のような人々に対してばかりでなく、ギリシア人たちの間で字を解する多くの人たちに対しても――何かしら尊いものに見えた。その結果、様々な分派が、数々の党派心や敵対心によってでは決してなく、まさに字を解する人たちの多くがキリスト教に関する諸々の事柄を理解しようとするがゆえに、必然的に成立した。こうして、すべての人によって神的であると信じられている諸々のみ言葉を様々に解釈することによって、諸々の分派が誕生することが結果したのである。そして、それらの分派は、み言葉の起源に驚嘆し、何らかの確信に動かされて、互いに異なる方向に向かった人たちの名を冠している。しかしながら、医術における諸々の分派のゆえに医術を人が避けるのは理にかなったことではないだろう。また、適切なものを目指している人が哲学を嫌い、その嫌う口実として多くの分派を引き合いに出すのも、理にかなったことではないだろう。同様に、ユダヤ人たちにおける諸々の分派のゆえに、モーセと預言者たちの諸々の神聖な巻物を断罪することも、理にかなったことではなかろう[2]



[1] 直訳すると、「真摯で、生活にとっても有益だとはいえない如何なる営みからも、様々な分派は生じなかった」となる。

[2] 本節は、『ケルソスへの反論』第312からの抜粋である。