さて、我々の内には、(我々の神は)ユダヤ人たちの神と同じではないと主張する人たちがいるとしよう[1]。しかしそれだからと言って、同じ諸文書からユダヤ人たちの神と諸国民の神は同じ一人の神であることを証明する人たちは、中傷されるべきではない。たとえば、ユダや人の許からキリスト教に入信したパウロも、次のように言っている。「私は私の神に感謝します。私は、先祖伝来のこの神に、清い良心をもって仕えています[2]」と。

 さらに、「ある人たちを魂的な者と名づけ、他の者たちを霊的な者と名づける第三の類の人たち」がいるとしよう。彼は、バレンティノス派の人たちのことを言っていると、私は思う[3]。しかし、教会に属する者である我々にとって、構成上救われる本性と構成上滅びる本性を導入する人たちを断罪する我々にとって、以上のことはどう関係するのだろうか。また、自分たちは哲学者であると公言するエピクロス派の人たちと同様に、自分たちは覚知主義者[4]であると言明する人たちがいるとしよう。しかし、摂理を否定する者たちは真の意味で哲学者ではあり得ず、イエス以来の伝承に従う人たちには承服されない諸々の奇異な作り事を持ち込む人たちはキリスト者ではあり得ないだろう[5]



[1] 本節は、『ケルソスへの反論』第561の半ばからの抜粋である。この抜粋の直前は、次のように訳出される:

【これらに続いて、彼は次のように言う。「彼らの内の一部は、自分たちの神はユダヤ人たちの神と同じであることに同意し、他の者たちは、これと対立する別の神が存在し、この神から御子が来たことに同意するのを、私が知らないと思わないでもらいたい(Cf.Celse, V, 54)」。しかし、キリスト者の内に多くの分派が存在することがキリスト教の中傷になるなら、なぜ同様の中傷が哲学に対して考えられないのだろうか。些細でどうでもよい事柄に関してではなく、きわめて重大な事柄に関する哲学者たちの諸々の分派における不一致が、どうして同様に中傷になると考えられないのだろうか。これでは医術も、その内における諸々の分派のゆえに中傷されることを、あなたはお考えいただきたい(Cf.Celse, III, 12)。】

[2] 2Tm.1,3.

[3] 省略

[4] Gnwstikoi,: 「グノーシス主義者」。

[5] この抜粋の続きは、『ケルソスへの反論』では次のように述べられている。訳出すると:

【さらに、イエスを受け入れ、それゆえに自分がキリスト者であることを誇りにしているが、なおその上に、ユダヤ人たちの律法に従って、多数のユダヤ人と同じように生活することを望む人たちがいるとしよう。彼らは、二種のエビオン派の人たちである。一方は我々と同様に、イエスが乙女から産まれたことを認め、他方はそれを認めないが、他の人たちと同じように産まれたことを認める(Cf.Celse, II, 1; V, 65)。このことが、教会に属する者たち――ケルソスは彼らを、「大衆に属する者たち」と名づけた――にどのような非難をもたらすのだろうか。また彼は、ある人たちがシビラの予言の信奉者(Sibullistoi,)でもあると言っている。おそらく彼は、女予言者シビラが自分たちに生れたと思っている人たちを非難し、彼らをシビラの予言の信奉者と呼んでいる人たちの話を耳にしたのであろう。】