そして彼は、次のように言う[1]。「彼らは、言うのも憚られるまったくおぞましい言葉で互いに中傷し合っている。彼らは、如何なる譲歩にも賛同することなく、互いに憎しみ合っている」。これに対しては、我々は既に、哲学においても医術においても、互いに異議を唱え合っている分派を見出すことができると述べた[2]。しかしながらイエスの言葉に従い、彼の諸々の言葉を考え語り行うのに励む我々は、「罵られても祝福し、迫害されても耐え忍び、誹られては慰める[3]」。我々は、我々が抱いている考えとは異なることを考えている人たちに、言うのも憚られるおぞましい言葉を掛けることはなかろう。むしろ我々はできることならば、彼らが創造主だけに寄りすがり、来るべき裁きに備えて万事を行うことによって、より善い状態に移れるように、あらゆることを行うのである。しかし、異なった意見を持つ者たちが(我々の勧告を)聞き入れなければ、我々は、彼らに対して次のことを命じる言葉を守る。「あなたは、異端的な人を1〜2度の警告の後に退去を願いなさい。ご存知のとおり、そのような人は道を踏み外して罪を犯し、みずからを断罪している人です[4]」とある。さらに、「平和をもたらす人々は幸いである[5]」という言葉と、「柔和な人たちは幸いである[6]」という言葉を理解した人たちは、キリスト教に関する諸々の事柄をおとしめる人たちを憎むことはないだろう[7]



[1] 本節は、『ケルソスへの反論』第563の後半からの抜粋である。この抜粋の前半は、次のように訳出される:

【次に彼は、彼が名前を挙げた人たちの他にも知っているように思われるために、彼にお決まりのやり方で次のように言っている。「他の人たちは、他の人を教師とし、他の人たちは、過って正道を踏み外し彷徨しつつ、エジプトのアンティヌースの追従者たちよりもはるかに不敬で不快な闇に陥り、悪霊を指導者にした」と。なるほど彼は、諸問題に軽く触れながら、何ほどかの真実を語っているように、私には見える。なぜなら、ある人たちはそれぞれに、過って正道を踏み外し彷徨しつつ、無知の甚だしい闇に陥り、悪霊を指導者にしたからである。我々のイエスにたとえられたアンティヌースに関する事柄については、我々は、これに先立つ諸巻で述べたので(cf. C.Celse, III, 36-38)、繰り返し述べるつもりはない。】

[2] 『ケルソスへの反論』第312;第561を参照せよ。

[3] 1Co.4,12-13.

[4] Tt.3,10-11.

[5] Mt.5,9.

[6] Mt.5,5.

[7] 『ケルソスへの反論』では、この続きにさらに一文がある。それを訳出すると:

【また我々は、迷った人たちをキルケー(ギリシア神話の魔女)や狡猾な指導者であるとも言わないだろう。】