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万物の上に位する神を、ギリシア人たちの間に伝わる名でゼウスと呼ぶのと、インド人たちの間に伝わる名でそのように呼び、あるいはエジプト人たちの間に伝わる名でそのように呼ぶのとでは、何の違いもないと主張する一部の哲学者たちに対して。『ケルソスへの反論』第1巻と第5巻からの抜粋。

 これに続けてケルソスは、次のように言っている。「山羊飼いと羊飼いたちは、唯一の神を考えていた――その神を彼らが、いと高き方やアドナイと呼ぼうが、天におられる方や万軍の主と呼ぼうが、あるいは彼らが好むやり方でこの世界をどのように命名しようが。それでいて彼らは、それ以上のことを何も知らなかった[1]」と。さらに続けてケルソスは、次のように言っている。「万物の上に位する神を、ギリシア人たちの間に伝わる名でゼウスと呼ぼうが、あるいはたとえば、インド人たちやエジプト人たちの間に伝わる名でそのように呼ぼうが、何の違いもない」と。これに対して、次のように答えなければならない。目下の課題には、諸々の名称の本性に関する深淵で曰く言い難い理論が関わっていると。諸々の名称は、アリストテレスが考えているように、人為的に存在するのだろうか[2]。それとも諸々の名称は、ストア出身の人たちが考えているように、本性的に存在しているのだろうか[3]。すなわち(彼らによると諸々の名称の)最初の声が、名称の表す事柄を模倣している。したがって彼らは、その点で、まさに語源学の幾つかの原理を導入している[4]。あるいはエピクロスが教えているように、ストア出身の人たちが考えるのとは別の仕方で諸々の名称は本性的に存在するのだろうか。すなわち(エピクロスによると)最初の人々が、諸々の事柄を表す声を発したのである[5]。そこで、もしも我々が、主導能力を働かせて、有効な諸名称の本性を明らかにすることができれば――それらの有効な諸名称の幾つかを、エジプトの賢者たちやペルシアの博学な魔術師たち、あるいはインドで哲学をしているブラフマナたちやサマナイオスの人たちが、それぞれの民の許で使っている――、そしてもしも我々が次のことを立証することができれば、すなわち、いわゆる魔術が、エピクロス派の人々やアリストテレス派の人々が考えるように一貫性のまったくない実践ではなく、むしろそれらの事柄に精通した人たちが証明しているように一貫した実践であって、その理拠は極わずかの人にしか知られていないということを立証できれば、我々は次のように言うことができるだろう。すなわち、万軍の主やアドナイ、あるいは、ヘブライ人たちの許で非常に恭しく伝えられてきたその他の名称が、偶然に生じた被造的な事柄に基づくものではなく、万物の造り主に向けられた曰く言い難いある種の神知に基づいている[6]、と。それゆえ、それらの名称は、それらに共通する何らかの必然的連関に即して語られるなら[7]、効力を持つのである。また、エジプトの言葉で――特定の事柄だけに効力を発揮するある鬼神たちに向けて――発せられた他の諸名称も、ペルシア人たちの言語で他の霊的存在者たちに向けて発せられた諸名称も、効力を持つだろう。それぞれの民族においても、それらの名称は、何らかの諸々の効用のために使用される。同様に、様々な場所を占有する地上の鬼神たちの名称は、それぞれの場所と民族の言葉に固有な方法で発せられるのが見出されるだろう。したがって、それらのことについて僅かなりとも優れた理解を得た人は、個々の名称を個々の事柄に対応させるようにするだろう。おそらく彼は、神という名称を誤って魂のない質料に帰したり、善という呼称を第一原因や徳あるいは美から闇雲な富に引きずり下ろしたり、その善を、健康と安楽をもたらす肉と血と骨の均衡やいわゆる高貴な生まれに引きずり下ろす人々と同じ轍を踏むことはないだろう[8]



[1] 名神の問題は、プラトンの『ティマイオス』(28B)でも触れられている。唯一の神が多くの名前を持ち、様々な形で礼拝されているという考え方は、当時のヘレニズム世界では、かなり一般的な考え方で、ストア派の神論に顕著に見出される(Diog.Laert. VIII, 235; SVF, II, 1070)。同じ考えは、ストア派以外では、イシス信仰(Plut., De Is. et Os., 67)、オルフェウス教(Macrob., Saturn., 1, 18)、フィロン(De Decal. 94)、錬金術(Asclepius, 20)に見出される。

[2] 「人為的に」(qe,sei); Aristotle, De Interpr.2 (16a,27). Cf. Origen, Exh.Mart.46; Clemens. Al., Strom.1, 143, 6; Albinus (Middle Platonist), Ep.6.

[3] 「本性的に」(fu,sei). 「自然的に」とも訳せる。

[4] Cicero, De Nat. Deor. III, 24, 62; Diogenianus ap. Eus.P.E. VI, 8, 8, 263 CD.オリゲネスの立場は、まさにこれである。

[5] E省略

[6] 本節は、『ケルソスへの反論』第1巻24節全体の引用である。

[7] 省略

[8] ストア派によると、富や高貴な生まれ、健康は、善と悪の中間に位置する望ましいもの(prohgoume,na)である。また「闇雲な富(tuflo.j plou/toj)」は、プラトンの言説に由来する。Cf. Lois, 631B-C.