おそらく、神という名称や善という名称を不適当なものに当てはめることは、曰く言い難い理拠に基づく名称を変更したり、劣った事柄に関する名称を優れた事柄に帰したり、優れた事柄に関する名称を劣った事柄に帰したりすることに優るとも劣らず危険であろう。また、ゼウスという言葉によって、クロノスとレアの息子、ヘラの夫、ポセイドニオスの兄弟、アテネとアルテミスの父、自分の娘ペルセフォネと交わった父が一緒くたに理解されたり、アポロンという言葉によってレトとゼウスの息子、アルテミスの兄弟、ヘルメスの異母兄弟が一緒くたに理解されるのだと、私は言うつもりはない。その他、ケルソスの賢者たち、すなわち諸々の教説の生みの親たちや、ギリシア人たちの太古の神話の語り部たちが持ち出した諸々の事柄が一緒くたに理解されると、私は言うつもりはない。実際、文字通りゼウスの名を挙げておきながら、彼の父はクロノスであり、彼の母はレアであると言わないのは、何とばかげたことだろうか[1]。神々と命名される他の者たちに関しても同様にしなければならない。しかしこの非難は、万軍の主という名称やアドナイという名称、あるいはその他の諸々の名称を、何らかの曰く言い難い理拠に基づいて神に与える人々には決して当たらない[2]

もしも人が、諸々の名称に関する曰く言い難い事柄について哲学的に考察することができるのであれば、その人は、神のみ使いたちの呼称についても、(語るべき)多くの事柄を見出すことができるだろう。それらのみ使いたちの内、ある者はミカエルと呼ばれ、他の者はガブリエルと呼ばれ、さらに他の者はラファエルと呼ばれる。彼らは、彼らが万事において万物の神の意志に従って仕える事柄にちなんで名付けられている[3]。我々のイエスも、諸々の名称に関する同様に哲学に関連している。彼の名称が、諸々の魂や身体の無数の悪霊を追い出したこと、および、それらの悪霊を追い出してもらった人々に作用したことが明瞭に目撃されている。

さらに、名称の問題に関して、次のことが言われなければならない。すなわち、諸々の呪文の行使に精通した人たちが報告するところによると、同じ呪文を母国語で語る人は、その呪文が約束する事柄を果たすことができる。しかし、その呪文を他の任意の言葉に置き換える人は、その呪文が目的を外れ、何の効果も果たさないことを体験すると。同様に、(名称が指示する)諸々の事柄の意味ではなく、諸々の音声の性質や特性が、あれこれの事柄に対して何らかの効力を内蔵しているのである。同じくこれらの事柄を通して我々は、キリスト者たちが神をゼウスと公言したり、神を別の言語で名づけたりしないようにするために、まさに死に至るまで戦っていることを弁護することができるだろう。事実、キリスト者たちは、神という一般的な名称を無限定に告白するか、あるいは、「万物の造り主、天地の製作者、人類にあれこれの特定の賢者たちを遣わす方」という修飾語を付けて告白している。神という名称は、これらの賢者たちのいずれかの名称に結び付けられると、人々の許で、何らかの力を発揮するのである。

諸々の名称の問題に関しては、名称の使用に頓着すべきではないと考える人たちに対して、さらに多くのことを語ることができよう。いやしくもプラトンが、『フィレボス』の中で次のように言って賞賛されるなら、すなわち、ソクラテスと対話をしていたフィレボスが快楽を神と言ったことから、「プロタルコスよ。神々の諸々の名称に関する私の畏怖の念は、小さくない[4]」と言って賞賛されるのであれば、数々の神話の中に伝承されてきた諸々の名称のどれ一つとして万物の造り主に結び付けなかったキリスト者たちが(プラトンに)優るとも劣らぬ畏怖の念を抱いていたことを、どうして我々は認めないだろうか[5]



[1] 擬人神観の非難を逃れようとして、ゼウスの名称だけを挙げるのはばかげていると、オリゲネスは言いたいのである。オリゲネスは、ここで、ギリシア神話に見られる不道徳で無分別な擬人神観を非難している。

[2] 『祈りについて』24,2:「名前は、名指された事柄の特性――この特性は、人格的な個性と同じく共有不可能なものです――を表す概括的な呼称です。しかし古代の幾つかの先例によりますと、神は、名指された事柄の新たな特質に応じて新しい呼称を与えることがきます。たとえば、アブラムとアブラハム、ケファとペトロ、サウロとパウロがその先例です。しかし出エジプト記で、「私はある」と言われているように、あるいは同様の表現にあるように、神は、常に不変不易であり、常に独一の存在としてあります」。

[3] Cf.De.Princ.,1,8,1; Hom.Jos.23,4; Hom.Nb.14,2.

[4] 省略

[5] 本節は、『ケルソスへの反論』第1巻25節からの引用である。本文ではこの直後に、次の一文が続いている。「しかし差し当たっては、以上の議論で十分である」。