さらに(オリゲネスは)、同じ事柄に関して『ケスソスへの反論』第5巻で次のように言っている。

 しかしケスソスは、カミを、「いと高き方」、ゼウス、「アドナイ」、「サバオト」[1]と呼ぼうが、エジプト人たちのようにアモン[2]と呼ぼうが、スキタイ人のようにパタイオス[3]と呼ぼうが、何の違いもないと考えている。そこで我々は、それらについても幾らか論じることにしよう――それらに関してケルソスの言葉が我々に喚起した同様の問題について既に述べたことを読者に思い起こさせつつ[4]。我々はやはり、諸々の名称の本性は、アリストテレスが考えるように名称を定めた人たちの約束事ではないと主張する。というのも、人々の間にある諸々の言語は、人々に起源を持ってはいないからである。そのことは、諸々の呪文の本性を思慮することができる人たちには、明らかである。これらの呪文は、様々な諸言語と諸名称の様々な発音とに即して、諸言語の創始者たちに帰されたからである。それらの事柄に関しては、我々は既に以前の巻で論じた。すなわち、特定の言語の本性的に意味をなしていた諸々の事柄は、他の言語に訳されると、元の言葉の内で果たしていたのと同じような効力をもはや果たさないと、我々は述べた[5]。似たようなことは、人々の間にも見出される。すなわち、生まれたときからギリシア語で呼ばれていた人物を、我々が、エジプト人たちの言語やローマ人たちの言語、あるいは他の(民族の)言語の中に移すと、その人は、最初に付けられた名称で呼ばれていたときに受けたり果たしたりした事柄を、受けたり果たしたりすることはできないのである。さらに、元からローマ人たちの言葉で呼ばれていた人を、もしも我々がギリシア語に移したなら、初めにその人に付けられた名称が保持されているときに呪文が行うと約束していた事柄を、我々は果たすことができないだろう[6]



[1] 省略

[2] 省略

[3] 省略

[4] 前節1〜2すなわち『ケルソスへの反論』第1巻2425節をさす。

[5] 『ケルソスへの反論』第1巻2528節をさす。

[6] 呪文は、元々その呪文が語られた言語圏でしか効力を発揮しないということである。本節は、『ケルソスへの反論』第5巻44節の前半からの抜粋である。引続いて、この節の後半が抜粋される。