人々の名称に関して述べられた以上の事柄が真実であるとすれば、何らかの理由で神的なものに帰された諸々の名称に関しては、どのようなことを考えねばならないだろうか。実際、アブラハムという名称から何らかの事柄がギリシア語に移され、イサクという呼称から何らかの事柄が意味されており、ヤコブという言葉から何らかの事柄が示されている。そしてもしも、呼び求める者あるいは誓いを立てる者が、「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神の名」を挙げるなら[1]、その人は、それらの名前の本性によって、あるいはそれらの名前の力によって、何がしかのことを行うことができ、悪霊たちは打ち負かされ、それらの名を語った人の下に服従させられるだろう。これに対してもしも人が、「選り抜きのこだまの父の神[2]・笑いの神[3]・簒奪者の神[4]」と言うなら、何の力も持たない他の名称(が何も行わないの)と同じように、名前を挙げられたものは何も行うことはない。同様に、もしも我々がイスラエルという名称をギリシア語やその他の言語に訳しても、我々は何も行うことはない。これに対して、もしも我々がその名称を保持し、(この問題に)精通した人たちが結び付けたいと思っていた事柄をその名称に付け加えるなら、然々の音声で為された然々の諸々の名前が示す約束に従って何事かが行われるだろう。同様のことを我々は、しばしば呪文において援用される「サバオト[5]」という言葉に関しても言うことができよう。すなわち、我々がその名称を「諸々の力の主」とか「万軍の主」あるいは「全能の主」と訳するなら――実際、その名称を翻訳した人はそれを様々に解釈した[6]――、我々は何も為さないだろう。これに対して、我々がその名称を固有の発音で保持するなら、それらに精通した人たちが主張するように、我々は何事かを為すだろう。同様のことを我々は、「アドナイ[7]」に関しても言うことができよう。かくして、「サバオト」も「アドナイ」も、その意味がギリシア語で訳されても[8]、何も果たさない。いわんやそれは、カミを「いと高き方」、ゼウス、「アドナイ」、「サバオト」と呼ぼうが何の違いもないと考えている人たちの許では、何も為さないし、何もなすことはできないだろう[9]



[1] 『ケルソスへの反論』第4巻3334節を参照せよ。

[2] 省略

[3] 省略

[4] 省略

[5] 省略

[6] 「諸々の力の主」(ku,rioj tw/n dua,mewn)は、七十人訳とテオドチオン訳。「万軍の主」(ku,rioj stratiw/n)はアキラ訳。「全能の主」(pantokra,twr)は七十人訳。Cf.Hom.Is.4,1.

[7] V省略

[8] 「それがギリシア語で意味する事柄へと移されてもそれがギリシア語で意味する事柄へと移されても」が直訳。

[9] 本節は、『ケルソスへの反論』第5巻45節の後半からの抜粋である。引続いて、この節の後半が抜粋される。