モーセや預言者たちも、それらの事柄やそれらの事柄に類似する言語を絶した諸々の事柄を知っていたため、すべてのものの上に位する神だけに祈るように努めてきた口で、「他の神々の名[1]」を挙げることを禁じ、諸々の思いや言葉のあらゆる虚栄に染まらないように教えられた心で、それらの名を思い起こすことを禁じたのである。そのようなわけ、我々は、ゼウスを神であると認めるよりも、一切の暴虐を耐え忍ぶことを選ぶのである。なぜなら我々は、ゼウスとサバオト[2]が同じであるとは考えないからである。それどころかゼウスは、およそ神的なものではまったくなく、悪霊の一種であるにもかかわらず、そのように名付けられることを喜んでいるのであって、人々の友でも真の神の友でもないと、我々は考えている。たとえエジプト人たちが、数々の刑罰で脅しながら我々にアモンを提示しても、我々は、アモンを神と呼ぶよりも死ぬことを選ぶだろう。なぜならアモンは、おそらく、この(アモンという)悪霊を呼び出すエジプト人たちの幾つかの祈願の中で引き合いに出されているからである。スキタイ人たちは、パタイオスがすべてのものの上に位する神であると言うがよろしい。しかしながら、すべてのものの上に位する神を信じる我々は、神がスキタイ人たちの荒地と彼らの民と言語とを我が物としたパタイオスの友であると思うわけもなく、パタイオスとい固有名詞で神を呼ぶこともない。もちろん、スキタイ人の言葉で、あるいはエジプト人の言葉で、あるいは各人がその中で生まれ育ったところのどのような言語でも、普通名詞としての神の名[3]を挙げることは、罪にはならないだろう[4]



[1] Ex.23,13; Ps.15,4.

[2] 省略

[3] to. proshgoriko.n to.n qeo.n ))) ovnoma,zwn)「普通名詞」と訳出した言語(to. Proshgoriko,n)は、「固有名詞」としてのオノマ(o ;noma)に対立する概念である。

[4] 本節は、『ケルソスへの反論』第5巻46節全体の抜粋である。