また我々は、太陽をアポロンと呼んだり、月をアルテミスと呼びたくはない。むしろ、創造主への清らかな信心を実践し、彼の諸々の美しい被造物を褒め称える我々は、諸々の神的な事柄を、その名称に至るまで穢さない[1]。我々は、快楽を神であると認めようとしなかったプラトンの、『ピレボス』における言葉を承認する。すなわち、「プロタゴラスよ、神々の諸々の名称に対する私の畏れは、そのようなものです[2]」とある。したがって我々は、神の名称と神の諸々の美しい被造物とに対して本当に畏れを抱いており[3]、象徴的解釈[4]の口実の下でさえ、若者たちに有害な何らかの神話を受け入れたりはしない[5]



[1] オリゲネスにとって、創造主によって造られた万物は、神的で美しいのである。

[2] 省略

[3] `省略

[4] 省略

[5] 本節は、『ケルソスへの反論』第4巻48節の後半からの抜粋である。その前半を訳出すると次のようになる。

 次に彼は、ユダヤ人たちやキリスト者たちの許にある教えに対する憎悪や敵愾心にみずからを任せ、「ユダヤ人たちやキリスト者たちの内でより相応しい者たちでさえ、それらの事柄を比喩的に解釈している」と述べ、「彼らはそれらの事柄を恥じて、比喩的解釈(avllhgori,a)に逃げている」と言っている(cf.C.Celse, I,17;III,23; IV,50)。しかし、人は彼に対して次のように言うことができるだろう:「最初の受容において諸々の神話や作り話に属する事柄が――それらが諸々の隠喩(u`ponoi,ai)によって書かれたものであれ、他の仕方によって書かれたものであれ――恥辱に値すると言わなければならないとすれば、ギリシア人たちの諸々の物語以外の何に対して、そのことを言うべきだろうか」と。これらの物語の中で、子なる神々は、父なる神々を去勢し(cf.Hesiode, Theog., 164-182)、父なる神々は子なる神々を飲み込む(cf.Hesiode, Theog., 459-467)。母なる女神は、「人間たちと神々の」父に、息子の代わりに石を与え(cf.Hesiode, Theog., 481-491)、父は娘と交わり、夫人は男を縛って虜にするために、虜にされる男の兄弟と娘を共犯者にする(cf.Homer,Il.I, 399-400)。しかし、どうして私は、神々に関するギリシア人たちの――比喩的に解釈しても恥辱にしか値しない――数々のばかげた物語を集める必要があるだろうか。多くの聡明な書物によって哲学者たちの柱廊を飾ったと見なされているソロイのクリュシッポスは、サモスにある絵画――そこには、ヘラがゼウスと淫らな行いをしている場面が描かれている――を解釈している。実際、この威厳ある哲学者は、みずからの著作の中で、次のように述べている。神の諸々の種子的なロゴスを受け入れた質料は、万物を秩序づけるために、それらをみずからの内に宿している。サモスの絵画にあるヘラが質料であり、ゼウスが神である、と(Diog. Laert., VII, 187; Clem.Rom.,h.5,18; Theoph., Ad Autol.3,8; SVF II, 1071-1074)。このようなわけで、また、これに類する数々の神話やその他の無数の神話のゆえに、我々は、たとえ名称だけであっても、すべてのものの上に位する神をゼウスと呼んだり、(太陽をアポロンと呼んだり、月をアルテミスと呼びたくはない)