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 ギリシア人たちの哲学者たちは、すべてのことを知っていると公言し、キリスト教において多くの人たちが無反省に信仰を受け入れ[1]、生活における知恵よりも愚かさを重んじていると非難する。さらに、いかなる賢者も教養ある人もイエスの弟子にはならなかったが、船乗りたちや極悪な収税人たちはその弟子となり、愚かで鈍感な人たち、奴隷、婦人、子女を宣教によって導いていると言って非難する。彼らに対して。『ケルソスへの反論』第1巻と第3巻からの抜粋。

 続いて彼は、「理性と理性の導きとに従って教えを受け入れる」ことを勧める。「なぜなら、そのようにしないで何らかの事柄を承認する人々は、確実に誤りに陥るからである」と。そして彼は、このような人々を、「(キュベレーの)托鉢神官や占者たちの言うことや、ミトラやサバディオスの崇拝者たちの言うことを非理性的に信じる人々、あるいは、ヘカテーや他の一柱の鬼神ないしは複数の鬼神たちの出現など、過去に人が遭遇したものなら何でも非理性的に信じる人々」になぞらえている[2]。「実に、これらの人々の内で卑劣な人たちが、だまされやすい人たちの無知につけ込んで、彼らを自分たちの思うままに導くように、キリスト者の間でも同様のことが行われている」と彼は言う。また彼は、ある人たちが、自分たちの信じる諸々の事柄に関して説明を与えたり、それらに関して説明を受けたりすることも望まず、「あなたは吟味してはならない。信じよ」とか、「あなたの信仰があなたを救う」という言葉を使うことを望んでいると言う。そして彼は、彼らが「この世の知恵は悪しく、愚かさは善である」と言っていると主張する。これに対して、次のように言わなければならない。もしもすべての人が、生活の諸々の雑事を放り出して哲学的営為に専念する余裕を持つことができるなら、これ以外の道を追求すべきではない。実際、キリスト教にも、――その品位を下げないように言えば――信仰内容の吟味や、預言における諸々の謎や福音における数々のたとえ話の解釈、その他無数の象徴的に起こった諸々の出来事や定められた諸々の掟の解釈が少なからず見出されるだろう。しかし、そのことがかなわぬのであれば[3]、一部は生活の諸々の必要のゆえに、一部は人々の弱さのゆえに、理性(的思惟)に没入する人たちは極めてわずかなのであるから、多く人々を利するには、イエスから諸国の民に与えられた方法よりも優れた方法が見出されるだろうか。

 さらに我々は、かつて浸っていた悪徳の途方もなく大きな激流を離れて信じるに至った多くの人たちに関して、次のように尋ねたい。非理性的に信じる彼らにとって[4]どちらがより善いだろうかと。すなわち、諸々の罪に基づいて罰せられる人たちと諸々の善良な業に基づいて誉れを受ける人たちとに関する信仰を得て、何らかの仕方で諸々の品行を正し利益を得るのと、諸々のみ言葉の吟味に専念するまでは単純な信仰による回心[5]を受け入れないのとでは。明らかに、ごくわずかの人々を除いて、およそすべての人々は、(キリスト者たちが)単純に信じること[6]によって得たものさえ得ることができず、かえって極悪の生活の内に留まるだろう。神の助けがなければ、人類に対するみ言葉の愛[7]は人々の生活の許に留まらないということを立証する他の証拠を挙げることができるとすれば、まさにそのことも数え入れなければならないだろう。実際、信心深い人は、諸々の身体の医者でさえ、たとえ多くの病人をより善い状態に導いてきたとしても、神の助けなしに諸々の町や諸国の民の許に留まるとは考えないだろう。神の助けがなければ、善良なことは人々の間に何も起こらないのである。もしも多くの人の身体を治療したり、より善い状態に導いたりする医者が神の助けなしには治療しないとすれば、ましていわんや、多くの人々の魂を治療し回心させ改善させ、それらの魂をすべてのものの上に位する神により頼ませ、すべての行いを神の喜ばれる方向に向けるように教え、神にとって不快な一切のことを――ほんのささいな言葉や行いや思いに至るまで――避けるように教える人は、神の助けがなければ、そうなし得ないであろう[8]



[1] この部分を直訳すると、「キリスト教における多くの人たちの信仰の無検討(to. avnexe,taston)を非難する」となる。

[2] ミトラはペルシアの神、サバディオスはフリギアの神、ヘカテーはギリシアの神である。

[3] 「哲学的営為に時間を割くことができなければ」という意味である。

[4] 省略

[5] 省略

[6] 省略

[7] to. fila,nqrwpon tou/ lo,gou)「神の助け」とは、恩恵として与えられる「単純な信仰」のことである。

[8] 本節は、『ケルソスへの反論』第1巻9節全体の抜粋である。