10 もしも我々が、生活を改めた人たちを、以前の生活を理由に非難しなければならないとすれば、我々は、ファイドンをも、まさに哲学をしたとして非難しなければならない。なぜなら歴史が語っているように、ソクラテスが彼を秘め事の家から哲学的営みへと導き出したからである。さらに我々は、哲学のゆえに、スセノクラテスの後を継いだポレモンの放縦を非難するだろう[1]。ここにおいても、哲学に関して、次のことを認めなければならない。すなわち、説得力をもつ人々の内にあった言葉は、かくも甚だしい諸々の悪徳に捕らわれていた者たちを、それらの悪徳から引き出すことができたということを。しかしギリシア人たちの許では、ファイドンという一人の人物が――私は(同名の)第二の人物を知らない――、またポレモンという一人の人物が、放蕩で悪辣極まりない生活から身を転じ、哲学の営みを行った。ところがイエスの許では、当時の十二人(弟子)ばかりでなく、常に倍増する多くの人たちが思慮深い人たちの一団に加わり、自分たちの以前の生活について次のように述べている。「私たちもかつては、愚か者で、不従順で、道に迷い、様々な欲望と快楽に隷属し、悪と妬みの内に暮らし、憎まれ者であり、互いに憎しみあった。しかし、私たちの救い主である神の慈しみと人類愛とが現れたとき」、私たちは、「再生の洗いと、神が私たちに注いでくださった霊による刷新とを通して[2]」今のようになった。なぜなら『詩編』の中で預言者が教えたように、神は、「ご自分のみ言葉を遣わして、彼らを癒し、彼らを諸々の腐敗から救い出した[3]」からであると。私は、これらの言葉に、さらに次のことを付け加えたい。すなわちクリュシッポスは、『諸々の情念の治療術』(という著作)の中で、人々の内にある諸々の魂の諸情念を抑えるために、諸々の情念に捕らわれた人たちを――学説の真理のほどを確認せずに――様々な学派に従って癒そうと試みた。そしてクリュシッポスは、次のように言っている。「たとえ快楽が目的であっても、諸々の情念を、このようにして癒すべきである。諸々の善には三種類あっても、やはりこの理論に従って、諸々の情念に縛られている人たちを、諸情念から救わなければならないと。しかしキリスト教の批判者たちは、み言葉のおかげで、どれほど多くの人たちの諸情念と、どれほど多くの人たちの悪徳の氾濫が抑えられ、どれほど多くの人たちの粗暴な生活習慣が和らげられたか分かっていない。共通善を誇りにする人たちは、新しい方法で多くの悪徳から人々を引き離した、このみ言葉の数々の恵みを認めるべきであった。また、その真理性とまでは言わなくても、人類に対するその善益を証しすべきであった[4]



[1] Cf.Diog.Laert.,2,9,05;4,3,16.

[2] Tt.3,3-6.

[3] Ps.106,20.

[4] 本節は、『ケスソスへの反論』第1巻64節全体の抜粋である。