12 (これに続けて)あなたが、まだ乳飲み子であったとき、なぜあなたは、殺されないようにするために、エジプトに避難する必要があったのか。そもそも神が死を恐れるはずがない(と、ケルソスの著書に登場するユダヤ人は言っている)[1]。しかし、イエスご自身を――ご自分における神性について「私は道であり、真理であり、命である[2]」と言ったり、これと似たようなことを言うイエスを、また、彼が人間的な身体の内にいることについて、「あなた方は今、あなた方に真理を語った人間である私を殺そうとしている[3]」と主張したイエスご自身を――信じる我々は、彼が複合体のごときものになっていると主張する[4]。実にイエスは、人間としてご自身が地上の生活に入ることを予め考えたとき、死に至る危険に時宜を得ずに突進しないようにする必要があった。同様に彼は、神的なみ使いに導かれた養育者たちによって導かれる必要もあった[5]



[1] この一文は、『ケルソスへの反論』第166の冒頭からの抜粋である。『ケルソスへの反論』では、この一文の直前に、「これに続けて、彼の著書に登場するユダヤ人は、イエスに向かって次のように言っている」という文が置かれている。『フィロカリア』では、本節に引用された一文と続く一文との間に、次の箇所が省略されている:

ところがみ使いが天から来て、あなたとあなたの家族に逃げるように命じ、捕らえられて殺されることのないようにしたのである。あなたのために既に二人のみ使いを派遣した偉大な神は、自分の息子であるあなたをその場で守ることができなかったのか、と(同様の異論と反論がユスティノスの著作にも見出される。Justin, Dial.,102,3-4)。これらの言葉の内でケルソスは、我々がイエスにおける人間的な身体と魂には神的なものはないと考えているばかりでなく、イエスの身体は、ホメロスの諸々の神話が導入しているような性質のものでもないと考えていると、思っている。実にケルソスは、十字架上で注ぎ出されたイエスの血を嘲笑し、その血は、

「幸いなる神々のご体に流るる如き霊液(Homer, II,V,340; cf.CC.II,36)

ではないと言うのである。

[2] Jn.14,6.

[3] Jn.8,40.

[4] 省略

[5] 本節は、『ケルソスへの反論』第166節の前半からの抜粋である。同書の後半は次のように訳出される:

まず、神的なみ使いは、忠告して言っている。「ダヴィデの子ヨセフよ、マリアをあなたの妻として迎えることを恐れてはならない。なぜなら、彼女の中に生まれた子は、聖霊に由来するからである(Mt.1,20)」と。次に、こう言っている。「あなたは立ち上がって、子どもとその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私があなたに語るまで、そこにいなさい。なぜなら、ヘロデがその子を探し出し、殺そうとしているからである(Mt.2,13)」。この個所に書き記されていることは、私には、少しも不条理なことには思われない。聖書のいずれの個所においても、み使いは、夢の中でそれらのことをヨセフに語ったと言われている。しかし、然々のことを行うようにと特定の人たちに夢の中で示されることは――魂に現れるのが天使であろうと、その他どんなものであろうと――他の多くの人たちにも起こるのである〔この続きは、『フィロカリア』第1813節に引用される〕。