13 であるから、ひとたび人間となったイエスが、諸々の危険を回避するために、まさに人間的な振る舞いに即して導かれたのは、どうして不条理なことであろうか。それは、危険を回避することが別の仕方では不可能だからではなく、イエスの救いに関する方法と順序が取られるように配慮しなければならなかったからである。実に幼子イエスがヘロデの陰謀を避け、陰謀を企てる者の死まで、養育者たちとともにエジプトに避難していることの方が――イエスのための摂理が、幼子を殺害しようとするヘロデの自由意志を妨げることよりも、あるいは、その摂理が詩人たちの間で言われている「ハデスの兜」やそれに似たものをイエスの回りに存在せしめることよりも[1]、あるいは、その摂理がソドムの人たちの場合と同様に[2]、彼の殺害のために来た人々を打つことよりも――はるかによいのである。たしかに、彼のためのまったく尋常ならざる、著しく明瞭な助けは――彼が、神によって証された人間として、目に見える人間の内に何かしらより神的なものを有していることを教えようと望んでいることにとって――有益なことではなかった。この何かしらより神的なものこそ、厳密な意味での神の子、神としてのみ言葉、神の力、神の知恵、いわゆるキリストであった。しかし今は、複合体に関する諸問題、すなわち、人間となったイエスがどのようなものから合成されているかに関して詳論する時ではない。この話題についての探求は、信者の人たちに課せられた固有の課題であると言える[3]



[1] Homer, II, v, 845; この兜をかぶる者は、見えなくなるとされる。

[2] Gn.19,11.

[3] 本節は、前節で省略された『ケルソスへの反論』第166節の後半部の抜粋である。

 

次へ