さらに、同じ『ケルソスへの反論』の第3巻で、彼は次のように言っている[1]

15 これに続けてケルソスは、キリスト者だと見なされている僅かの人たち――彼らは、ケルソスの考えるような、より思慮深い人たちではなく、無学の極みにあるの人たちである――によって言われた、イエスの教えにまったく反する諸々の事柄を持ち出し、それらの事柄が彼らによって命令されたと述べている。すなわち:

教育を受けた人たち、賢者たち、思慮深い人は、誰も近寄るな。それらのことは、我々の間では忌まわしいと見なされている。しかし、無学な人や理解力のない者、無教養なもの、子供じみた人がいれば、思い切って来なさい、と。実に彼らは、そのような人たちが彼ら自身の神に相応しいと告白することによって、愚かな人たち、卑賤な人たち、鈍感な人たち、奴隷たち、女たち、幼子たちだけを説得しようと望んおり、また、そうすることしかできないのは明らかである。

 これに対して、我々は次のように言いたい。イエスは、慎み深さに関する諸々の事柄を教え、「女性を物欲しげに見詰めるなら、その人はすでに、自分の心の中で彼女と姦通したのである[2]」と述べている。しかし、それにもかかわらず、非常に多くの人たちからキリスト者であると見なされている僅かの人たちが放蕩な生活を送っているのを、ある人が目撃するなら、その人が、彼らはイエスの教えに反した生活をしていると言って非難するのは至極当然である。しかし、彼らに対するその非難をみ言葉に向けたとすれば、その人は極めて不合理なことをしたことになろう。同様に、キリスト者たちの教えが、他の何ものにも劣らず、知恵に招かれているのが見出されるなら、自分自身の無学を弁護するために、ケルソスが記載した言葉を述べないにしても――無知で無学な人たちでも、それほどまでに破廉恥なことを言わない――、知恵の実践からかけ離れたはるかに劣悪な言葉を述べる人たちは、非難されて然るべきだろう[3]

 



[1] フィロカリアには、このような小見出しが付けられている。

[2] Mt.5,28.

[3] 本節は、『ケスソスへの反論』第344節全体の抜粋である。