17 イエスの後に書かれた諸々の巻き物に、あなたが向かってみれば、信者たちのの群れが、あたかも部外者で諸々の公教的な教えだけにしか値しないかのように、数々の例え話を聞き、他方で弟子たちが、諸々の例え話の説明を「個人的に」学んでいるのを、あなたは見出すだろう。実際イエスは、「ご自分の弟子たちに、個人的に、すべてを解き明かしました[1]」。イエスは、群集よりも、ご自分の知恵を勝ち取ろうとする人たちを尊重した[2]。イエスは、ご自分を信じる人たちに「諸々の知恵者と書記官」を送ると約束して、次のように言っている。「見よ。私は、あなた方のところに、諸々の知恵者と書記官を遣わす。しかし(人々は)、その内の幾人かを殺し、十字架につけた[3]」。パウロも、神から与えられた諸々の賜物の目録の中で、第一に「知恵の言葉」を置き、第二に、それの下位にあるかのように「知識の言葉」を置き、第三に、おそらくより下位にあるものとして信仰を位置づけた。さらに彼は、数々の驚くべき働きよりも、言葉を尊重していたため、「諸々の力の業」と「諸々の癒しの賜物」を、言葉による諸々の賜物よりも下位に置いている[4]。『使徒たちの言行』の中のステファノも、さだめし、多くの人たちの許には達しなかった諸々の太古の書物から情報を得て、モーセの広範な学識を証ししている。彼は、次のように言う。「そしてモーセは、エジプト人たちのすべての知恵において教育を受けました[5]」と。それゆえモーセは、諸々の驚くべき事柄においても、(それらは)神に由来するという約束に即して為されたにもかかわらず、エジプト人たちの諸々の学識に従ってそれらの事柄を行ったのではないかと勘ぐられた。なぜならモーセは、それらの学識において知恵があったからである。モーセについて、そのようなことを考えた(エジプトの)王は、エジプト人たちの呪術師たちや博識家たち、魔術師たちを呼び寄せた。しかし彼らは、エジプト人たちのすべての知恵に勝るモーセの知恵を前にして無に等しく、面目を失ったのであった[6]



[1] Mc.4,34.

[2] 「勝ち取る」と訳したギリシア語は、法廷用語で、「裁判によって獲得する」という意味である。

[3] Mt.23,34.

[4] 1Co.12,8-10.

[5] Ac.7,22.

[6] Cf.Ex.7,8-12.  本節は、『ケスソスへの反論』第346節全体の抜粋である。