18 しかし、『コリントの人たちへの第一の手紙』の中で、パウロによって書かれた諸々の事柄は[1]、ギリシアの知恵を大いに誇るギリシア人たちに向けて書かれたものであったため、ある人たちをして、み言葉は知恵者たちを望んでいないかのように思わしめたかもしれない。しかし、そのように思う人は、次のことを聞くべきである。すなわち、み言葉は俗悪な人たちを糾弾しようとして、彼らは、諸々の可知的な事柄や不可視的な事柄、永遠の事柄について知恵者なのではなく、諸々の可感的な事柄にのみかかずらい、すべてを可感的な事柄の内で了解しているのだから、「この世の知恵者」であると言っている。同様に、教えはあまた存在するが、質料ともろもろの物体に賛同し、すべての物体が優れた意味で実在物であり、それら以外のもの――不可視的なものと言われるものであれ、非物体的なものと呼ばれているものであれ――はまったく存在しないと主張する諸々の教えを、み言葉は、見捨てられ蔑視される「世の知恵」であり、まさしくこの代(かぎり)の知恵であると言っている[2]。これに対し、魂を、この地上の諸々の雑事から神の許にある至福へと、神のいわゆるみ国へと転じさせる諸々の教え、すべての可感的なものと見えるものとを一時的なものとして蔑むことを教え、諸々の不可視的な事柄を熱心に求め、諸々の見えざる事柄を考察するように教える諸々の教え、そのような教えを、み言葉は、「神の知恵[3]」と言っている。真理の友であるパウロも、ギリシア人たちの中でも真実を語っている幾人かの知恵者たちについて、「彼らは、神を知っていながら、神を神として賛美したり、感謝したりすることがなかった」と言っている。実にパウロは、彼らが神を知っていたと証言している。また彼は、次のように書くことによって、このことが神の助けなしには彼らに生じなかったと述べている。すなわち、「神が(そのことを)彼らに明らかにした」と。さらに彼は、次のように書くとき、諸々の可視的な事柄から諸々の可知的な事柄へと昇っていく人たちを暗示しているように(私には)思われる。すなわち、「神の諸々の不可視的な事柄――神の永遠の力と神性――は、宇宙の創造のときから、諸々の作られたものによって理解され観られています。それゆえ、彼らに弁解の余地はありません。なぜなら彼らは、神を知っていながら、神を神として賛美したり、感謝したりすることがなかったからです[4]」とある。



[1] Cf.1Co.1,18s.

[2] オリゲネスは、「世」(o` ko,smoj)と「この代」(o` aivw,n ou=toj)を区別する。前者は文字通り万物を包括する空間すなわち宇宙であり、後者は、前者の内部で相継いで生起する有限な世代を意味する。この区別については、彼の初期の論考『諸原理について』に詳しく述べられている。

[3] 2Co.4,18.

[4] Rm.1,19-21. 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第47節全体の抜粋である。 なお、オリゲネスは、『ローマの信徒への手紙注解』(I,17)で次のように述べている:

ここで彼が、諸々の不可視的な事柄と名づけているものは、諸々の造られたものについて言っている。それらについて使徒は、他の箇所でも次のように書いている。すなわち、「すべてのものは、彼すなわちイエス・キリストによって作られました――天にあるものであれ、地にあるものであれ、諸々の可視的な事柄と諸々の不可視的な事柄」。それゆえ、「諸々の不可視的な事柄」と述べた後で、彼は、「その方の永遠の力と神性と」付け加えている。したがって、永遠である神の力と、これまた永遠である神性とは、被造物から推測して、知れられる。力はすべてのものを統御し、神性は宇宙万物に満ちている。