19 おそらく、「兄弟たちよ、あなた方は、あなた方ご自身の召命をお考えください。肉によれば、多くの知恵者がいるわけではなく、多くの有能者がいるわけではなく、多くの高貴な生まれの人がいるわけではありません。むしろ神は、知恵者たちを恥じ入らせるために、世の諸々の愚かな事柄を選び出し、諸々の卑しい事柄や無きに等しい事柄、諸々のありえない事柄を選び出し、諸々のありえる事柄を無効にしました。それは、すべての肉が、彼のみ前で誇らないようにするためです[1]」という言葉からも、ある人々は動かされて、教養ある人も知恵者も思慮深い人も誰一人、み言葉には近づかないと考えるようになったのかもしれない。しかし、我々は、そのような人に対し、「肉によれば、知恵者」は誰一人として、と言われているのではなく、「肉によれば多くの知恵者が」と言われていると言いたい。次のことは明らかである。パウロは、監督者がいかなる人であるべきかを描き、監督者といわれている人たちの特徴として、まさに教師を挙げた。虚言を弄する人たちと誘惑者たちをみずからの知恵によって黙らせるために、監督者は「反対者たちを論駁する」ことができなければならないと、パウロは言う。重婚者よりも単婚者の方が、非のうちどころのある人よりも「非のうちどころのない人」の方が、酒好きの人よりも「酒を飲まない人」の方が、不節制な人よりも「節度のある人」の方が、僅かでも礼儀に描ける人よりも「礼儀正しい人」の方が、監督職に向いているのと同様に[2]、パウロは、監督職に優先的に任命されるべき人は、「反対者たちを論駁する」こともできる教師であることを望んでいる。このようなわけであるから、どうしてケルソスは、我々が「教養ある人や知恵者や思慮深い人は誰も近寄るな」と主張しているとして、我々を合理的に非難することができるのか。むしろ我々は、教養ある人や知恵者や思慮深い人は、望むなら、近寄りなさいと主張している。それに劣らず、学識も理解力も教養のない人でも幼児でも近寄りなさいと主張している。なぜならみ言葉は、そのようにして近づく彼らを癒し、すべての人を神に相応しい人にすると約束しているからである[3]



[1] 1Co.1,26-29.

[2] Tt.1,9-11; 1Tm.3,2.

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第48節全体の抜粋である。