次に、信仰に関する諸々の事柄に関して、彼ら(ケルソスに同調する人たち)は言い騒いでいるので、次のように言わなければならない。我々は信仰を、多くの人々に有益なものとして受け取っている。そのため我々は、すべてを捨ててみ言葉の吟味に従うこと[1]のできない人たちに、非理性的でもよいから信じるように教えていると認める。しかし彼らにしても、たとえ認めなくても、事実上、同じことを行っているのである。そもそも、哲学に出会い、偶然に、あるいは特定の教師に恵まれて、哲学者たちの一学派に身を投じる人は、その学派が(他の学派に)優っていると信じて、そうするのではなかろうか。彼は、すべての哲学者たちや諸学派の諸説を聞くのを待ち、然々の諸説の反駁と他の諸説の立証を聞くのを待った上で、ストア派やプラトン派、ペリパトス派、エピクロス派になること、あるいは、その他の哲学者たちの任意の学派に属することを選ぶのではない。(ケルソスに同調する)彼らは認めようとしないだろうが、人々は何らかの非理性的な動きに駆られて、たとえば他の諸説を斥けてストア派の説を実践するに至り、あるいは、他の諸説を低級なものとして見下してプラトン派の説を実践するに至り、あるいは、ペリパトス派の説を、他の諸学派に優って諸々の人間的な善を寛大に認めるもっとも人間的な説と見なして実践するに至るのである[2]。ある人々は、地上において卑劣な人たちや立派な人たちに起こる諸々の出来事から引き出された摂理に対する攻撃に初めて接して動揺し、摂理はまったく存在しないと性急に同意し、エピクロスとケルソスの説を採用したのである[3]



[1] Cf.Mt.19,27.

[2] 省略

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第1巻10全体の抜粋である。