20 また、神のみ言葉が、ただ愚か者のたち、身分の低い者たち、鈍感な者たち、奴隷たち、女たち、子どもたちだけを説得することを教師たちに望んでいるとするのも、誤りである。み言葉は、彼らをも招き、彼らを改善しようとしている。しかし、み言葉は、彼らよりもはるかに優る人たちをも招いている。なぜならキリストは、「すべての人の、取り分け信者たちの救い主[1]」だからであり、理解力のある人たちであれ、より単純な人たちであれ、「私たちの諸々の罪のための――私たちの罪ばかりでなく、この世全体の罪のための――贖いの供え物[2]」だからである。したがって、次のように言うケルソスの言う発言に、我々が弁明しようとするのは余計である。彼は言う:「さらに、教養を身につけ、諸々の高貴な理論を修め、思慮深いと同時にそう見えることが、どうして悪いことなのか。どうして、それが神を知ることを妨げるのか。どうしてそれが有益でないのか。むしろ人は、それによって、真理に到達することができるのではないのか」と。たしかに、真の意味で教養を身につけていることは、悪いことではない。なぜなら教養は、徳への道だからである[3]。しかしながら、諸々の誤った学説をもっている人たちを、教養を身につけた人たちの中に数え入れることは、ギリシア人の賢者たちといえども肯定しないだろう。[また、我々の教えによれば、知恵は、邪悪の知識ではない。むしろ邪悪の知識は、敢えて言えば、誤った考えを抱き、諸々の狡智に惑わされて人たちの内にある。それゆえ私は、彼らの内には智恵があるというよりも無知があると言いたい[4]]。さらに、諸々の高貴な理論を修めていることが善いことであることに、いったい誰が同意しないだろうか。ただし我々は、徳へと人々を招く諸々の高貴な教えや真実の教えのことを言っている。また、思慮深いことが善いことであるとすれば、そのように見えることは、ケスソスの発言に反して、もはや善いことではない。そればかりか、教養を身につけ、諸々の高貴な理論を修め、思慮深くあることは、神を知ることを妨げないばかりか、それを助けてくれる。このように言うことは、ケルソスによりも、むしろ我々に相応しい――取り分け彼が、エピクロス派として非難される限りは[5]



[1] 1Tm.4,10.

[2] 1Jn.2,1-2.

[3] オリゲネスにとって、「真の意味での」教養を身につけること[教育を受けること]は、神の国へ過ぎ越すために不可欠の条件の一つである。

[4] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第49節全体の抜粋であるが、この箇所[  ]は、フィロカリアにのみ現存する。

[5] オリゲネスは、「エピクロス派」の名の下に、通俗的な快楽主義を理解している。