21 彼の次の発言も、我々は考察しよう。それはこうなっている。「しかし我々は、あちこちの広場で数々の破廉恥極まりないものを示したり、(多くの聴衆を)集めたりする者たちを見る。彼らは、思慮深い人たちの集まりに決して近寄ることなく、彼らの中で自分たちの数々の見事な事柄を敢えて示そうともしない。ところが彼らは、青年たちや奴隷どもの一群や、無思慮な人々の集まりを見ると、駆けつけて気取るのである」と。あなたは、これらの言葉で、(ケルソスが)どのような仕方で我々を中傷しているかをご覧ください。彼は、我々を、「あちこちの広場で数々の破廉恥極まりないものを示したり、集めたりする者たち」になぞらえている。いったい我々は、どのような数々の破廉恥極まりないものを示しているのか。そもそも我々は、それらに似たようなことを何かしているのか。我々は、諸々の読み物を通してでも、諸々の読み物に関する解釈を通してでも、万物の神への敬神へと、そして、その敬神とともに君臨する諸々の徳へと(人々を)促し、神的なものを軽蔑することや、正しい道理に反して行われるすべての事柄から(人々を)逸らそうとしている。哲学者たちでさえ、善きことへと招く諸々の言葉を聴く人々をできるだけ多く集めたいと願うだろう。取り分けキュニコス派[1]の幾人かは、通りすがりの人たちと対話しながら、公然とそのことを行ってきた。教養を身につけていると思われている人々を集めず、むしろ、三叉路から聴衆を呼び集める彼らを、「あちこちの広場で数々の破廉恥極まりないものを示したり、(人々を)集めたりする者たち」に似ていると、人々は言うだろうか。ケルソスにしても、同じことを考える者たちの誰にしても、それなりの人類愛に駆られて[2]、もっとも門外漢極まりない大衆にも言葉をかける人たちを非難したりはしない[3]



[1] 無欲と自足を徳の理想とするヘレニズム時代の小ソクラテス学派である。

[2] 直訳は、「自分たちに思われる人類愛に従って」(kata. to. faino,menon auvtoi/j fila,nqrwpon)である。これは、確認はしていないが、キリスト教的な人類愛と区別された言い方だろう。

[3] 本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第50節からの抜粋である。