22 しかし、そのことを行う彼らが非難されないとすれば、キリスト者たちは、優れて彼ら以上に、大衆を高貴な善徳に招いているのではなのか、我々は考察してみよう。公然と対話する哲学者たちは、聴き手の人たちを区別しない。望む人は(誰でも)、立ち止まり、(彼らの話を)聴く。ところがキリスト者たちは、自分たちの話を聞こうと望む人たちの諸々の魂を可能な限り試し、個別に彼らを指導する。聴き手の人たちが、(キリスト者たちの)共同体に入る前に、立派に生きる意志において十分に進歩したと思われるとき、キリスト者たちは彼らを(共同体に)入れる。キリスト者たちは、加入したばかりで、清めの象徴をまだ受けていない者たちの集団と、キリスト者たちが是認する事柄以外に何も行いたくないという意志を可能な限り証明した人たちの集団とに分ける。キリスト者たちの中には、(キリスト教に)近づいてきた人たちの諸々の生活と振る舞いを丹念に調べ、諸々の破廉恥なことを行っている者たちを、自分たちの集まりに来ないようにさせ、他方で、そうでない人々を心を尽くして受け入れ、日々、彼らを改善する任務を与えられた人たちもいる。罪を犯した者たち、取り分け、放蕩な人たちに対するキリスト者の態度は、そのようなものである。キリスト者たちは、彼らを共同体から追い出す。彼らは、ケルソスに従えば、「あちこちの広場で数々の破廉恥極まりないものを示す者たち」に似ている。ピュタゴラス派の人たちの厳粛な学塾も、自分たちの哲学から離反した者たちに墓標を建て、彼らを死者になったと見なしている。キリスト者たちも、放蕩や何らかの愚かしい理由に負けた者たちを、神とっては失われ死んだ者とみなし、彼らを死者として悼む。しかし、もしも彼らが、最初に(教会に)案内されてから多くの時間がたった後、著しい変化を示したなら、キリスト者たちは、彼らを死者たちから復活した者として受け入れる。とはいえ、み言葉に近づいた後に躓いてしまった者たちを、神の教会のいかなる職務や指導職にも就けることはない[1]



[1] キプリアヌスも同様に考えている:

Frustra tales episcopatum sibi usurpare conantur: cum manifestum sit eiusmodi hominess nec Ecclesiae Christi  posse praeesse, nec Deo sacrificial offerre debere… eiusmodi hominess ad paenitentiam quidem sgendam posse admitti; ab ordinatione autem cleri atque sacerdotali honore prohiberi(Ep.67,6).:「そのような者たちが監督職を手に入れようとしても無駄である。なぜならそのような人間たちは、キリストの教会に君臨するこてができず、神に諸々の生け贄をささげるべきではないのは明らかだからである。・・・そのような人間たちは確かに、悔い改めを行うことは許され得る。しかし、聖職者の叙階と司祭の誉れを(得ることを)禁止される」。

なお本節は、『ケルソスへの反論』第3巻第51節からの抜粋である